kurinal の回答履歴
- ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない
ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。それについて問うて さらなるよい問い求めが出来たらと思います。 (1) 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)とのあいだに《自然で論理的な絆が ないのではなく ある》ということを例証し 恣意性が支配しているとは見られないことを明らかにします。 (2) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった三つの語における特には子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとしての意義素があるという仮説を提出します。 (3) すなわち まづ語義としての類似性は こうです。: 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。 《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。 《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。 そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。 (4) と見て さっそく仮説を推し出します。 音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる 音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある すなわち いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。 すなわち / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。 (5) どうでしょう? / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。 / gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。 (6) すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。 / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。 ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互いに差があることによってのみすなわち恣意的にその音韻が / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったに過ぎないと言っています。 言いかえると このささやかな例証では / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説です。 (7) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。 けれども ここでも / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。 nage-ru 投げる (障害なく 延びて行かせる) naga-su 流す (障害を避けて 延びて行かせる) naga-reru 流れる (障害を避けて 延びて行く) naga-i 長い (障害なく延びた状態にある) (8) さらに語例を伸ばしましょう。 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではなく いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見られても仕方がない語例ではあります。 nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態) nago-mu 和む (障害が消滅していく) nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜 (障害の消滅を希求) nega-u 願う (障害の消滅を希求) つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 母音が交替していますね。であっても / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語義には 類似性が見られます。 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。 (9) ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。 (あ) オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。 ・ 郭公は その / k / の音素をじっさいの鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。 ・ 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。 (い) あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。 つまりさきほどの: nagi 和ぎ nago-ya-ka 和やか nago-mu 和む これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。 といった考察は すでに成されています。 (10) 派生語ではだめなので さらにさらに語例を増やします。ここで子音の清濁の違いにかかわらず 同じ意義素を帯びると仮説します。すなわち / g / = / k /:《過程相・移行相》です。 nuku / nuke-ru 抜く/抜ける (障害・邪魔の除去・離脱) noku / noke-ru 退く/除ける (障害・邪魔の離脱。除去) nugu / nuge-ru 脱ぐ/脱げる (同上) nugu-u / nogo-u 拭う (同上) nige-ru / niga-su 逃げる/逃がす (同上) noga-su / noga-reru 逃す/逃れる (同上) (ただし ここまで来ると 障害や邪魔は 離脱する者のほう ではなく対立する相手の側に 設定されている。) noko-ru / noko-su 残る/残す (同上) (ただし 上の補注と同じように 視点の移動が見られる。 消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく 以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに 焦点が移ってしまった。 (11) おぎなうべき議論の一端として: 音素・・・・=・・・・意義素 _______________ / n / = 同定相・否定相 / g / = 反出相;反定相・疑問相・変化相 といった仮説を前提としています。 いま / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相) といった複合によって / nVgV / なる音韻(シニフィアン) =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ) といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。 (12) ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。 (13) うえの(11)における 音素=意義素 の仮説は その意義素がなぜ現われるのか。これについては 長くなるので割愛します。 次の書き込みなどを参照してください。 【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8508948.html その回答No.1のお礼欄などです。
- 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか
たたき台をしるしますので お考えを述べてください。 【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24) (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。 (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。 【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17) (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。 (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。 (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。 (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。 ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~ 主はカインに言われた。 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の 復讐を受けるであろう。」 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに しるしを付けられた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (7) のちに: ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。 ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが: ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする ☆ とも言っている。 (8) イエスの出たあとでは こう言う。: ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~ 17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』 と主は言われる」(申命記32:35) と書いてあります。 20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22) 21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19) (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。 (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。 【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.) (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。 (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。 (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。 【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6) (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。 (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~ 2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【§6】 イエスの後の現代 (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。 (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。
- 思考上の区別と本当の違うもの
数年前か、男性がブラジャーつけるや女性的なワンピースを着せるなどありました。 でも、実際は社会的なバイアスをどうとらえるか別にして、男性の体型でブラジャーというのも少し疑問ではあるんです。 女性が立ち食いソバに行く。日本人がイタリア料理を毎日食べるなど。 日本のプロ野球に外国人を自由にいれるのと欧州のリーグにブラジル人が入って活躍している 考えれるものと実際を列挙すれば、いろいろこういうケースなど多いです。 日本人女性がチャイナドレスを着るとコスプレですけど、外見が大きく変わらないのに中国では伝統衣装です。逆に中国の方が着物をコスプレ感覚できていたり。 思考上で区別、カテゴリーにされているものと本当に違うものがあるように思えます。 ある集団には伝統ももってます。 でもたとえば、男性と女性を一緒にする。あるいは日本のプロ野球に体型の大きな外国人を無制限にいれれるとかは差をなかったことにしているかと思います。 逆に日本人でもイタリア国籍などとれるでしょうし。(難易度などは難しいとは思いますけど) 思考上の区別しているものを取っ払って、でも差のあるものをなかったことにしないというのはこつや基準などってありますでしょうか?
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- noname#209756
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- 自民党一党多数で民主主義と言えるだろうか?
私は子供の頃から疑問でしたが 自民党独裁で世の中は良くなるのでしょうか? 何度選挙をしても何故か自民党が勝つ。 昔はマスコミを信じ込んでいたので 自民ばかりが勝つのはなぜかと不思議でした 詰まる所は利益の為。既得権益を守る為。自分たちが勝ちたいという人が集まって 自民党やらジャイアンツを応援すると。 地方選に至っては 自民 民主 公明 社民 維新相乗りの候補とか居て この選挙に選択の余地はあるのかと 疑問を持ちますねえ。 民主主義とはより良い意見を選ぶこと 政党政治など卑怯未練 己の信ずる所に従って 是は是とし 非は非とする。 この価値観お多様な時代に なんで自民党は100人以上みんな意見が同じなのか? 話し合いで決めるといっても 民主主義的な話し合いではなく 談合じゃないか? 自民一党独裁 是か非か?
- ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ
ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ 1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ 【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った定理など) 非経験(経験世界を超えた場を想定) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭) ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ------------------------ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論) 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(有神論) 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。
- 無知、嘘のスキームが氾濫した場合の取り除くコツ
嘘、無知のスキームをたくさんのべてきたあるいは氾濫している環境にいたとします。 そこである考え方で動いても、嘘、無知が多くて頭がすっきり整理されることなく、混沌としたとします。 正論で考えても世界は思考でできている部分のありますが、そうでない部分があります。 解が一つでないのに細分化して考えたり。そもそも正解不正解の意味づけすら人の価値で思考自体が意味のない分野もあります。無為自然って言葉もありますね。 スキームにとらわれないことかと思います。 高い徳を持って、悪いスキームにとらわれないってどうすればいいのでしょう? 思考自体は中性的なので、科学技術やビジネスモデルにでもなれば、だます手段にでもなります。 論理で生きていたり、文章によるロジックで自己表現していたりすると正誤でひっくりかえりやすいのかとも思ってます。
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- noname#209756
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- ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である
《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。 この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。 法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。 ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~ http://fallibilism.web.fc2.com/130.html シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。 すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。 このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。 (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。 この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。 のではないだろうか? 反論をもとめます。 ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。 ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~ 長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。 ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐 れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ ケ)だけでも お話しください。 世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が 幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において 世尊によって成熟させられておりますので かれらは 世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり ましょう。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか? 中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。 ゆえに とうといのであろうか? だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?
- 教育はこれでいいのか?
ハッキリ言って 勉強なんか嫌いだと言う子供は多い。 それなのに旧態依然として数学や英語の文法や物理も そりゃ好きな子供にはどんどん教えていでしょうけど 嫌いな子供に嫌いなことをやらせて 忍耐だけを覚えさせるなんて ナンセンス! スポーツや車の好きな子供にはその時間の枠を広げ スポーツや技術を通して問題をクリアして行く忍耐力を付けさせる必要があります。 料理の好きな子どいは料理を教え、ボランティアの好きな子供にはボランティアを教える そのようなワイドな教育をしないと。成る程数学や英文法も大切かもしれないが もう全然ついて行けてない子供が沢山いるじゃないですか。 僕は家庭教師業をやっていたので分かるのですが。どの子も可能性は持っているのです。 それでも好き嫌いはあるのです。 今や学校よりも塾や習い事の方が大切になり、親も先生を軽んじ 子供も道徳や倫社もやらずに「キモい」とか「ウザイ」とか「ガイジ」とか 「ありえない?」等と言って 言葉も軽いし いじめの温床になります。 無視や裏切りが当たり前になるとは・・・何たることか!? 今教育はどうあるべきか 哲学に問いたい。 どう思いますか?皆さん。
- 人は生まれ変わりますか?基準やルールは?
人は生まれかわると言う方に質問です。もし輪廻転成が本当にあると仮定するなら、みんなそれぞれ前世が有ったという事になります。魂のみが新たな生命に宿ると言う事ですが、どの様な基準でどの肉体に行くと決められるのですか? もし僕の父と母が会って無かったら僕は違う生命体に産まれてきていたということになりますか?もしそうなら今より幸せな人生か不幸な人生歩んでいるのでしょうか?それとも幸福度が全く同じの人間に生まれているのでしょうか?ただ、幸せ度は物差しで計る事は無理です(価値感が人によって違います)。さらに魂自信がどの生命体に生まれるのかを選べるのならまだしも、選択の権限がなければ不公平な気がします(人生の目的が前世でのカルマを解消するというのが本当なら話は別ですが、それでも人間の価値観は子供の時の環境やDNAに左右されるのでその事も考慮した上で。例:家が貧乏でも親がちゃんとしてれば幸せ生きる事ができるまた逆も然り)。 あと最後に、魂はいつ肉体に入るのでしょうか?受精した時でしょうか?それとも産まれてくる時でしょうか? 非常に難しい質問で申し訳ありません。
- 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31
聖書の伝えるヤハヱーなる神は みづからによるみづからの揚棄をおこなった。 つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。 旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に その内容を明らかにして予告し それがパウロをつうじて かれの著わしたと伝えられるヘブル書で けっきょくイエスによって 〔そのイエスが神の子キリストとして世に 現われたという想定のもとに〕 成就した と語った。 すなわち: ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~ もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~ 見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである ――と、主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は 次の内容であると捉えます。これを問います。 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。 ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。 (α‐1) ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。 ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。 すなわち (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。 ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。 ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。 (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。 (γ‐3) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。 ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。 ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。
- 人として基本的な大切な価値
ラジオのパーソナリティーが言ってた「咎める」という言葉で思ったのですけど。 基本的な価値観があっての「咎める」ですよね。 インターネット技術でどこまでが犯罪でというのは技術が進化する中で法的な問題など進化していくものではあります。 しかし、窃盗、傷害、殺人、嫌がらせなど害悪はしてはいけませんし、 聖邪あるいは俗は逆転とかはあまりしないものであると思います。 仏教など伝統の価値であるとか、同性愛に対してどう思うかなどの進歩的な価値であるとか。 関係なしに、大きく変わらない価値ってあると思います。 いくら正当化しても牽強付会であったり、低級な欲ってその個に対して正しいだけで人の社会を維持するうえで人としての善悪というものでは決まっている問題かと思います。功利主義のみんなの利益というものとも少し違うと思います。進歩や変えることや革新、やる気のために傷害を起こすのは人として良くないですよね。 反進歩が当然いいわけではありません。 人として変わらない大切な基本的な価値って何でしょう? 時代や場所だから変わるともいいきれないものってたくさんあります。多数決で変えてもダメなものも多いです。普遍的というのでしょうか? 嘘とかはだめとされてますね。 おおむね伝統はそのことが含まれてはいるかとは思います。揺らぐとかの意味で変えすぎは善くないものでもあります。 真善美、正邪俗、自然犯などの部分など。 最近はなぜ咎めるがなかなかできなくなったのでしょう?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- noname#209756
- 回答数9
- ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ
ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ 1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ 【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った定理など) 非経験(経験世界を超えた場を想定) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭) ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ------------------------ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論) 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(有神論) 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。
- ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である
《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。 この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。 法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。 ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~ http://fallibilism.web.fc2.com/130.html シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。 すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。 このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。 (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。 この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。 のではないだろうか? 反論をもとめます。 ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。 ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~ 長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。 ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐 れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ ケ)だけでも お話しください。 世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が 幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において 世尊によって成熟させられておりますので かれらは 世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり ましょう。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか? 中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。 ゆえに とうといのであろうか? だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?
- われら日本人に《考える》を望むのは無理なのか?
(あ) すでに考えられた結果を受け留めることしか望めないのか? (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか? (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? (か) なぜこれほどまでに日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。 (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? (き-1) 特に 神・信じるということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるところのしかも高ぶり状態。高尚なるタコツボ地獄。 (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? (け) ・・・ どうですか?
- ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である
《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。 この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。 法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。 ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~ http://fallibilism.web.fc2.com/130.html シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。 すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。 これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。 このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。 (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。 この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。 のではないだろうか? 反論をもとめます。 ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。 ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~ 長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。 ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐 れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ ケ)だけでも お話しください。 世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が 幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において 世尊によって成熟させられておりますので かれらは 世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり ましょう。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか? 中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。 ゆえに とうといのであろうか? だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?
- われら日本人に《考える》を望むのは無理なのか?
(あ) すでに考えられた結果を受け留めることしか望めないのか? (い) われら考える日本人は 少数であるゆえに 悪貨は良貨を駆逐するの慣わしの前に望みは薄いとあきらめねばならないか? (う) 哲学以前あるいはさらにへたをすると人間以前という実際を目の前にして どうすればよいか? (え) 足の引っ張り合いなるたたかいに まだしばらくは 対処していかねばならない情況であろうか? (お) (あ)の見方によれば 外国人をまづ説得しその外国の人間が考えた結果であるというのなら 日本人は受け容れるのだろうか? (か) なぜこれほどまでに日本人は あほばか状態が好きなのか? 心の奥底でそうなのではないだろうに。 (き) なぞの隠れた愚民化政策が どこかその筋から ほどこされているのだろうか? (き-1) 特に 神・信じるということについての理解が あの聖徳なるぼんくら太子の水準でありつづけている。《世間虚仮 唯仏是真》なるおのれのみの観念の世界の中にくすぶりつづけるところのしかも高ぶり状態。高尚なるタコツボ地獄。 (く) あるいは あほばかヰルスが ひょっとしたら ばら撒かれているのだろうか? (け) ・・・ どうですか?
- とんで火に入る夏の虫?
我々は結局は跳んで火に入る夏の虫なのでしょうか? それとも本当の光 永遠の光の方向を目指して 未来を開き続けて行く事が出来る存在でしょうか。 人間の中から その様な未来が開けるか 否か?
- 教育はこれでいいのか?
ハッキリ言って 勉強なんか嫌いだと言う子供は多い。 それなのに旧態依然として数学や英語の文法や物理も そりゃ好きな子供にはどんどん教えていでしょうけど 嫌いな子供に嫌いなことをやらせて 忍耐だけを覚えさせるなんて ナンセンス! スポーツや車の好きな子供にはその時間の枠を広げ スポーツや技術を通して問題をクリアして行く忍耐力を付けさせる必要があります。 料理の好きな子どいは料理を教え、ボランティアの好きな子供にはボランティアを教える そのようなワイドな教育をしないと。成る程数学や英文法も大切かもしれないが もう全然ついて行けてない子供が沢山いるじゃないですか。 僕は家庭教師業をやっていたので分かるのですが。どの子も可能性は持っているのです。 それでも好き嫌いはあるのです。 今や学校よりも塾や習い事の方が大切になり、親も先生を軽んじ 子供も道徳や倫社もやらずに「キモい」とか「ウザイ」とか「ガイジ」とか 「ありえない?」等と言って 言葉も軽いし いじめの温床になります。 無視や裏切りが当たり前になるとは・・・何たることか!? 今教育はどうあるべきか 哲学に問いたい。 どう思いますか?皆さん。
- 貴方が全知全能の神だったら どういう世界を創るか?
全知全能の神は居ない様ですねえ もしあなたが全知全能の神だったら「この現実」ではなく どの様な世界を作りますか? 人間を作るか否か 作るならどういう風に作るか。 もしあなたの自由になるとしたら・・・どの様な世界を?創りますか