littlekiss の回答履歴

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  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

    • noname#80116
    • 回答数43
  • 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。

     この質問は 《QNo.4140486:人の業績は 人間そのものですか = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4140486.html 》を継ぐものです。  さしづめお伺いしたいことは 次のような主題です。  (1) 意識と無意識との関係が知りたいです。あっても 知り得ないという想定ですか。  《無意識》と規定すると 無意識という場やはたらきがあると捉えがちになります。記憶という行為において 含まれるであろうとは思います。ですが 実際には その働きは 意識し得ませんし なかなか 理解しがたいものです。想定する場合には どこまでを 捉えているのでしょう?  (2) 記憶と意志との関係を 無意識説の立ち場から おしえて欲しい。  人間の行為能力には 三つを想定します。記憶行為(≒司法)は ほかの知解行為(≒立法)や意志行為(≒行政)と どうかかわっているのか これを 無意識野を想定する立ち場では どう説いているのでしょう?   *  *  *  なお さらに趣旨説明として 掲げておきます。  この問いの課題は 一つ あって それに決まっているように考えています。つまり 《意識および無意識なる経験領域》と《それらを超えたさらに無の領域》 これら両領域の互いの関係や如何に? の一点だと思います。その具体的な視点が 上の主題です。  すでに 質問者も かなり問い求めを進めて来ております。(前の質問の質疑応答を参照されたし)。再掲します。  人間にとって 表象は 視認にせよ概念の把握にせよ 心の志向性にとって 或る目標を与えます。理想や理念のそれであれば その心の視像は 意志の目的とそこにおける休息になり得ます。  《記憶そして無意識野〔での出来事だ〕》と想定し規定すれば わたしたちは そこを あたかも探究の途上にありつつ 〔あたかも〕到達点として位置づけてしまいがちです。合点! 合点! 合点! というわけです。  早い話が 通り魔殺人事件での加害者にせよ被害者にせよ その原因究明に際して ポーンと 《アーラヤ識なる場における記憶行為の積み重なり》の説を出すと 《ああ 犯人は 無意識野だ》という早飲み込みに到らないとも限りません。  というよりは それでもよいのですが 問題は その先にあって では この無意識野におけるわが生命の息吹きでもあり しかもちょっとよそ道に逸れてしまったこのわが衝動を どうすればよいか これを 同時に 明らかにしてくれたまえ。そうしてこそ この《アーラヤ識》の理論の真骨頂があるのではないか。ということになります。のではないでしょうか?  《記憶》行為は 《意志(つまり これに色をつければ 愛です)》の行為と そして《知解(知識ないし経験合理性)》と それぞれの内容が 互いに時間的な食い違いをゆるしつつも おそらくは 一定の時系列において・もしくは一つの生涯において 互いの一体性を持つと考えます。わたしたちは それら三つの能力行為のあいだこに 互いの整合性を問い求めようとします。(ホンネとタテマエの食い違いと それの是正のようにです)。  このような時間的な差延を持った三つの行為能力の一体性に仮りに立つとすれば 記憶にかんする〔知解としての〕科学的な解明のほかに それと並んで 意志としての心の志向性のあり方 これも 大いに 自己主張をしてよいのではないか。こう考えますが いかがでしょうか。

    • noname#80116
    • 回答数43
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 強いこととは何ですか?

    はじめまして。 私はつい考えこんでしまう性格でして、この間いじめをテーマにした小説を読んだときにある疑問が浮かび、その答えをどうしても見出せません。 その小説に出てくるいじめ被害にあった子は、皆親や周りの大人に相談せず、ただひたすら一人で耐え、学校に通っていました。 そして、その子達のことを「勇者」や「兵士」といったような、正に「強いもの」としてたとえてありました。 そこでふと思ったのですが、いじめにひたすら耐えるのは本当に強いことなのでしょうか。 そうだとすれば、相談することや不登校になることは弱いことなのでしょうか。 本当に強いことって何ですか? いじめられても根性で耐えること? それとも周りに助けを求められることですか? 集団でないと何もできないので心は弱いかもしれませんが、立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします。 また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 大人が頼りにならないからでしょうか。変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? それともそれが「本当の強さ」だから?

    • noname#87274
    • 回答数19
  • 強いこととは何ですか?

    はじめまして。 私はつい考えこんでしまう性格でして、この間いじめをテーマにした小説を読んだときにある疑問が浮かび、その答えをどうしても見出せません。 その小説に出てくるいじめ被害にあった子は、皆親や周りの大人に相談せず、ただひたすら一人で耐え、学校に通っていました。 そして、その子達のことを「勇者」や「兵士」といったような、正に「強いもの」としてたとえてありました。 そこでふと思ったのですが、いじめにひたすら耐えるのは本当に強いことなのでしょうか。 そうだとすれば、相談することや不登校になることは弱いことなのでしょうか。 本当に強いことって何ですか? いじめられても根性で耐えること? それとも周りに助けを求められることですか? 集団でないと何もできないので心は弱いかもしれませんが、立場だけで見るといじめる側が一番強いような気もします。 また、いじめられている子供はどうして相談しないのでしょう。 大人が頼りにならないからでしょうか。変なプライドが邪魔をしてるんでしょうか? それともそれが「本当の強さ」だから?

    • noname#87274
    • 回答数19
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 友人の「ランキング」とは?

    質問のカテをどこにするか迷いました。 純粋に哲学的な問題ではなく、ある種の人間関係に関することなので、 他のカテかとも思いましたが、 一歩突っ込んだ意見をお聞きしたいと思い、こちらに質問します。 数ヶ月前からあるSNSに参加しています。 わたしはMIXIの経験はありませんが、まぁそんなものです。 そこには「フレンド」というのがいて、コメントやメッセージの交換、やり取りをするのですが、 悩みというのは、そこのSNS独特のシステムなのかわかりませんが、 TOP4FRIEND とかTOP8、TOP12という風な表示のされ方をするのです。 例えばわたしが誰かのTOP8にいたとします。 しかし数日後に10位になっていることがあります。 その時わたしはこう考えます。 ああ、わたしより「優れた人」「重要な人」「価値のある人」が新しく出来たんだなと。 わたしは自分の価値が値崩れしたように感じて非常に落ち込みます。 そして、出来ればそこから退去したいと思います。 ところが「彼」或いは「彼女」のフレンドリストから自分を消すことが出来ません。仕方なく自分のフレンドリストからその「彼」なり」「彼女」を削除します。すると必ずと言っていいほど「何で自分を削除したんだ!?」という問い合わせが来ます。 わたしの意識としては彼なり彼女なりをさくじょしたのではなく、 彼女のフレンドの中で価値を失った自分を削除したに過ぎないのですが・・・ お聞きします。 例えばトップ4にいる人はそれ以下の人よりも「価値ある」人なのでしょうか? トップ3の人は4位の人よりも微妙に優れているのでしょうか? いったいこの「友人の序列」はなにを意味していると思われますか? そしてもしあなたが誰かのフレンドリストのなかで、ランクダウンした時どう感じますか? とりとめのない質問ですみませんが、 個人的なご意見をお聞かせいただければ幸いです。

    • noname#79626
    • 回答数5
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 頭がいいと、どうして分るの

    あの人は頭がいいとか、あの人は利口な人だなどと、いち目置いたりちょっと警戒心を持ったりすることってありませんか。 それとか、仲間との会話の中に「あの人は頭がいいから・・・」なんてわざわざ挟んで仲間から同じ感想を得ようとしたりすることも。 だからといって学校の成績だとか職場での評価などといった具体的に「頭の良さ」を証明できるものを知っているわけでもないし、だいいち、それほど長く深いお付き合いでもない・・・。なのに、ほとんど直感的に「なんとなく」頭がいいと感じてしまう・・・、そんなことありませんか。 そこで質問なんですが、なんとなく頭がいいと感じてしまう、その「なんとなく」っていったい何なんでしょう?。 話し方?、だとしたら話し方のどこでそう感じるのでしょう?。 目や表情?、だとしたらどんな表情なんでしょう?。

  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 迷惑は存在するか

    20歳のニートです 自分は周りの人や物に頼ってしまう傾向があるそうです。 しかも感謝の気持ちが沸いてきません。 例えば、親が経済的に援助してくれる今の状況についても 「相手が好きで投資している」 と思ってしまい それで相手がどうなろうが自業自得だし自己責任の問題であると思ってしまいます。 要するに期待するなといいたいのです 嫌なら家からほっぽりだしてもらって結構ですし 自分自身ホームレスになっても構いません どんな状況でも幸せなんていくらでも見つかると思うからです。 でも追い出してくれないから今は親を利用して自分は親の家に居座って迷惑かけています。 人間関係にも同じようなことが言えると思います。 例えばメールがきても、つまらない内容であれば返さないし、嫌な人からの電話はでません。 自分が寂しかったりするときにだけ相手にメールしたり電話したりして求めて自己満足しています 結局他人がどんなに迷惑だろうと自分がよければそれでいいようです 一見ただの自分勝手のように思われるかもしれませんが、自分自身迷惑だとか嫌だと感じたことがないように思えるから言ってるのです。 高校でいじめられたときも「いじめられるのは仕方のないことだ。自分が強くなればいい」と思ってましたし 人の邪魔をされてもそれをどう処理するかが問題であり、邪魔した相手は何ら悪くないと思います。 メールが返ってこなかったり人に裏切られたとしても まぁ人はみんな自分勝手だから仕方のないことだと思い他の方法で不安を昇華させます 迷惑だとかそんなものが存在するならそれは単にその人の甘えである。 迷惑とは利己的なものである反面公益に繋がるものであると思うので 迷惑という言葉の存在自体が迷惑であると思うのですが、どう思われますか。

    • thymos
    • 回答数23
  • 迷惑は存在するか

    20歳のニートです 自分は周りの人や物に頼ってしまう傾向があるそうです。 しかも感謝の気持ちが沸いてきません。 例えば、親が経済的に援助してくれる今の状況についても 「相手が好きで投資している」 と思ってしまい それで相手がどうなろうが自業自得だし自己責任の問題であると思ってしまいます。 要するに期待するなといいたいのです 嫌なら家からほっぽりだしてもらって結構ですし 自分自身ホームレスになっても構いません どんな状況でも幸せなんていくらでも見つかると思うからです。 でも追い出してくれないから今は親を利用して自分は親の家に居座って迷惑かけています。 人間関係にも同じようなことが言えると思います。 例えばメールがきても、つまらない内容であれば返さないし、嫌な人からの電話はでません。 自分が寂しかったりするときにだけ相手にメールしたり電話したりして求めて自己満足しています 結局他人がどんなに迷惑だろうと自分がよければそれでいいようです 一見ただの自分勝手のように思われるかもしれませんが、自分自身迷惑だとか嫌だと感じたことがないように思えるから言ってるのです。 高校でいじめられたときも「いじめられるのは仕方のないことだ。自分が強くなればいい」と思ってましたし 人の邪魔をされてもそれをどう処理するかが問題であり、邪魔した相手は何ら悪くないと思います。 メールが返ってこなかったり人に裏切られたとしても まぁ人はみんな自分勝手だから仕方のないことだと思い他の方法で不安を昇華させます 迷惑だとかそんなものが存在するならそれは単にその人の甘えである。 迷惑とは利己的なものである反面公益に繋がるものであると思うので 迷惑という言葉の存在自体が迷惑であると思うのですが、どう思われますか。

    • thymos
    • 回答数23
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
    • 回答数45
  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
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  • 自然法は もう人気がないのでしょうか

     《wiki=自然法》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95  《wiki=自然法論》: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95%E8%AB%96  知りたいのは 次の点です。  (1) その法源は 神・自然・理性が挙げられていますが 自然(自然本性)も理性も 自然法そのものを言うと言わなければならないでしょうし 自然(環界・宇宙)は おそらく神の摂理の問題になるでしょう。そうすると 残りは 神です。これは 無根拠と言えば いいのではないでしょうか。自然法の法源は 無根拠である。こう考えてはいけませんか?(つまり 公理ですね)。  (2) 《殺すなかれ》もしくは《生命の尊重》 この一つの事項を〔のみ〕 自然法の内容とするとしては いけませんか?   * ただし 中傷・名誉毀損のような 《社会的生命の損傷》も含めます。  こうすれば 自然法の内容にかんして 人ごとに違っていて 定まらないということは起きないでしょうし 実定法とのあいだに 特別の溝があるとも思えないのですが。  wiki(その後者)によれば このような最小限の内容をもって 自然法を規定する行き方を ハーバート・ハートという人が提唱しているようにも言っていますが そのあたりについては よく分からないままの質問になります。よろしくご教授いただければ幸いです。

    • noname#80116
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