littlekiss の回答履歴
- ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――
ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》―― 《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。 《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。 ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。 例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。 禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。 けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。 ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。 要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか? でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。 どうすればよいでしょう? * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。
- 《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か
《夕陽の信仰》――山折哲雄による――とは何か ▲ 山折哲雄:夕焼け小焼け――日本人の生命観 死生観―― http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001841/0/index.html ☆ この中の次の箇所についてその内容を問います。 ・ 韓国の仏教学者に教えられたこと ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(一) ・ 『夕焼け小焼け』に表れた日本人の宗教観(二) ・ 『夕鶴』にみる夕陽信仰 ☆ 文章は講演内容であり 読みやすいのですが かなりの長さがあります。要約しつつ疑問を述べて行きます。その前にすでに問いをかかげておきます。 【α】 夕陽の信仰は どこまで日本人のこころにうったえているか。 【β】 仮りにうったえていたとして どこまでそれが錯覚でないと言えるか。 1. 《 ♪ 夕焼け小焼けのあかとんぼ》ともうたわれるわけだが ここでは童謡の《夕焼け小焼け》をとりあげよう。小節づつ。 2. 《 ♪ 夕焼け小焼けで 日がくれて》 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本人は昔から、あの落日のかなたに浄土をイメージしてきたのではないでしょうか。・・・ 沖縄に行きますとニライカナイという海上のかなたに存在する理想の国土が信じられております。 その太陽がまた翌日になると、東から昇るわけであります。それは人生が必ずよみがえる、季節も繰り返しよみがえってくるという再生の考え方とも結びついている。それを象徴するのが落日ですよね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. 《 ♪ 山のお寺の 鐘がなる》 ▲ “山のお寺の鐘が鳴る” その山のお寺が朝昼晩 鐘を鳴らす。鐘の響きを聞いて人々は起床し、食事を取り、労働をし、1日のリズムがそれで決められていく。 ☆ 鐘は人為的なものだが すべては人びとの日々のくらしの世界に溶け込んでいる。自然とも一体であるということをも つづく箇所と合わせて言おうとしているようです。 4. 《 ♪ お手てつないで みなかえろ》 ▲ しかしこれは大人に対するメッセージでもあると私は解釈しています。「帰るべきところに帰れよ。」 そういうメッセージですね。 5. 《 ♪ からすといっしょに かえりましょう》 ▲ 「共生」、動物たちや小鳥たちや自然といっしょに生きていこうという考え方は、もうこの『夕焼け小焼け』の歌の中にきちんと歌い込まれていたんです。 6. 木下順二の『夕鶴』 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・〔* あるたけの羽根で織物を織らせられ〕鶴は人間どもの欲望の尽きないありさまに絶望して、天上に帰っていく。鶴が飛び立ったときに初めて与ひょうは大事なものを失ったと思う、という現代劇です。 最後につうが天上に戻っていくその場面を、木下順二はどう表現していたか。これが夕焼け空なのです。つうは真っ赤に燃えた夕焼け空に向かって飛び立って行った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7. ☆ さてここで最初の【α】と【β】の問いになります。 特に【β】については こうです。 【β‐1】 日本人は――いくら自然と一体だと言っても――決して 夕陽の向こうのイデアの世界にふるさとを見るなどということはしないのではないか。――《世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば》(山上憶良)。その場この場にとどまるほうが 日本人の伝統ではないか。 【β‐2】 同じような内容として:《人間のあさましさ・その欲望の深さにたとえ絶望した》としても 鳥ではないのだから 夕鶴のように夕焼け小焼けの赤く染まった西の空のかなたを目指して飛び去っていくことはないであろう。 【β‐3】 この《夕鶴》および《夕陽の信仰》というしろものこそが 日本人のあいだに いぢめを無くさなくしておる共同の観念であり幻想であるのではないか。いぢめに遭ったとしても 夕陽の観念に逃れその栄光の観念の国にのぞみを見い出せと 周りの《観念の運河》からは声が聞こえて来る。――《和を以て貴しと為せ》と上から言われなかったなら わたしは和を乱すことを知らなかった。これが 日本人の信条ではなかったか。 ☆ 思想として見た場合の山折哲雄および木下順二というそれぞれ内容について全否定を試みるものです。どうでしょう? * (おまけ) 夕鶴の《つう》は 羽根がなくなったのに どうして空を飛べたのでしょう?
- 韓国人とのおつきあいは 日本人にとって うまく行きますか?
韓国人とのおつきあいは 日本人にとって うまく行きますか? 互いにその言語がおもに語順としての発想においてですが極めて似かよっているようです。しかも ・自己主張の有り( Korea )と無し( Japan ) ・暗黙の了解(以心伝心)の有り( Japan )と無し( Korea ) というふうにあたかも百八十度ちがっていると言われます。 * 参考サイト:日本文化论概況 http://www.dltcedu.org/index_5/html/93526/over/noallow/page/2.shtml 【問い】 そこで知りたいのは 日本人が自然を自分たちの存在と別のものとは思わず一体感を持つといったときのその感覚を 韓国人は持つか? です。 ちなみに 渡辺吉鎔によれば 野暮かどうかにかかわる美意識が違うということのようです。 ◆ (渡辺吉鎔) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本語の「主語なし文」が野暮を嫌う日本的な美意識のあらわれであるとか、省略の美学のあらわれであると唱えても、全く同じ「主語なし文」を有する韓国人にはそんな美意識はない。 (『朝鮮語のすすめ』 1981 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なお言語の類似性について 参考文例をかかげます。 ▲ (ヨハネ福音1:1-4) ~~~~~~~~~~~~~~~ 【 K 】 taecho-e malsseum-i gyesi-nira. 【読み】 テーチョ‐エ マルスム‐イ ケーシ‐ニラ。 【直訳】 太初‐に ことば‐が います‐〔なり〕。 【 J 】 はじめに ことばが あった。 【 K 】 i malsseum-i hananim-gwa hamggeo gyesy-eoss-euni 【読み】 イ マルスミ ハナニム‐クワ ハムコ ケーショッスニ 【直訳】 この 言葉‐は 天さま(神)と ともに いまし‐た‐が 【 J 】 ことばは 神とともに あった。 【 K 】 i malsseum-eun got hananim-isi-nira. 【読み】 イ マルスム‐ウン コッ ハナニム‐イシ‐ニラ。 【直訳】 この 言葉‐は すなわち 天さま(神)‐にいます‐〔なり〕。 【 J 】 ことばは 神であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 世界の中で 日本が軍事力の問題を抜きにした話として ちからを合わせて行けるとすれば それはまづ韓国であるのではないでしょうか。 主題を広げて思うところ・ご存じのことを述べていただくのもありがたいと思います。よろしくどうぞ。
- 私達は口頭会話でも、そして文章でもよく主語などの人称指示を省略します。
私達は口頭会話でも、そして文章でもよく主語などの人称指示を省略します。 これに反し、欧米言語での文章では主語や人称をしっかりと指示していると存じます。 第一人称、第二人称、第三人称、そして単・複の区別やI, my, meとか、主格性とかの表示について。 ですから欧米の文章の直訳などのように人称を一々表示すると、日本の文章でははくどくていやになります。 1. このことは、日本人が欧米人に比して自己を指示する志向が薄弱であるということを示唆するでしょうか? 日本語文章では、第一人称用の言語(“われ”、とか、“己”)を第二人称に宛てている、話しの表現に出会います。 このことに関連して、 【日本語には「代名詞」は存在しないという考え方があります. つまり, あたかも「代名詞」のように見えるものは文法上ただの名詞であり, それが状況によって代名詞のように使われる, という考え方です. もちろん「代名詞的に使われる」ときには, その場によって「何を指示するのか」が変わります. 逆に, 同じものを指示する場合であっても周辺状況で使われる名詞が異なることもあります. この視点で考えると, 「われ」にしろ「おのれ」にしろ「自分自身」をさす「ただの名詞」であり, これらの語で指し示される「自分自身」が文脈 (状況) によって 1人称になったり 2人称になったりすると解釈できます. これならまったく問題はありません.】 というご回答での示唆を参考として頂きました。(http://okwave.jp/qa/q6244383.html) 2. このことで日本人が欧米人に比して自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向を示すものだと理解することは失当なものでしょうか? 〔関連参考〕 http://okwave.jp/qa/q6244383.html http://okwave.jp/qa/q6249026.html 〔なお〕 歴史学でも古史古伝は歴史の専門家がやっているようにはみかけません。 古史古伝などはその道の専門家からはとても相手にできないのでしょう。 私もプロフィールにある通り、一介の大学事務現場の職にあったものです。 国語学や歴史学、或いは心性のことなどは退職してたった一度の自治体のシニアの講座に出て、 目を向けているに過ぎません。 専門の方からみれば噴飯ものかも知れませんが、何かのコメントをいただけるとあり難いです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖
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- 私達は口頭会話でも、そして文章でもよく主語などの人称指示を省略します。
私達は口頭会話でも、そして文章でもよく主語などの人称指示を省略します。 これに反し、欧米言語での文章では主語や人称をしっかりと指示していると存じます。 第一人称、第二人称、第三人称、そして単・複の区別やI, my, meとか、主格性とかの表示について。 ですから欧米の文章の直訳などのように人称を一々表示すると、日本の文章でははくどくていやになります。 1. このことは、日本人が欧米人に比して自己を指示する志向が薄弱であるということを示唆するでしょうか? 日本語文章では、第一人称用の言語(“われ”、とか、“己”)を第二人称に宛てている、話しの表現に出会います。 このことに関連して、 【日本語には「代名詞」は存在しないという考え方があります. つまり, あたかも「代名詞」のように見えるものは文法上ただの名詞であり, それが状況によって代名詞のように使われる, という考え方です. もちろん「代名詞的に使われる」ときには, その場によって「何を指示するのか」が変わります. 逆に, 同じものを指示する場合であっても周辺状況で使われる名詞が異なることもあります. この視点で考えると, 「われ」にしろ「おのれ」にしろ「自分自身」をさす「ただの名詞」であり, これらの語で指し示される「自分自身」が文脈 (状況) によって 1人称になったり 2人称になったりすると解釈できます. これならまったく問題はありません.】 というご回答での示唆を参考として頂きました。(http://okwave.jp/qa/q6244383.html) 2. このことで日本人が欧米人に比して自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向を示すものだと理解することは失当なものでしょうか? 〔関連参考〕 http://okwave.jp/qa/q6244383.html http://okwave.jp/qa/q6249026.html 〔なお〕 歴史学でも古史古伝は歴史の専門家がやっているようにはみかけません。 古史古伝などはその道の専門家からはとても相手にできないのでしょう。 私もプロフィールにある通り、一介の大学事務現場の職にあったものです。 国語学や歴史学、或いは心性のことなどは退職してたった一度の自治体のシニアの講座に出て、 目を向けているに過ぎません。 専門の方からみれば噴飯ものかも知れませんが、何かのコメントをいただけるとあり難いです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖
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- アース役のごみ処理方法について
アース役のごみ処理方法について は 次の記事があらすじをしるしていると思うのです。それを解読してみてくださいませんか。 ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~ ――ルカによる福音書8:26-39 ―― 26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。 28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。 ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」 29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。 30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。 33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。 34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。 35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。 36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。 37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。 38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 39 ――「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ガミガミ役からの意識の排泄としてのゴミを みづからの内的に棄てるということ。こうだと思っているのですが ご見解を寄せてください。
- 永遠は存在するのでしょうか?
永遠は存在するのでしょうか? ふと、永遠はあるのだろうかと疑問を持ちました。 ・人間は勿論、永遠じゃないですよね。100年後には皆死んでしまいます。 ・地球も永遠じゃない。いつかは跡形もなく無くなるかもしれない。 ・人間の考え出した(発見した)数式や思想はどうだろうか。でも人間がいなくなれば使われること が無くなる。これも永遠じゃない。しかし人間がいなくても、思想はまだしも数式などはあるようなもの ではないか?でも人間が見つけない(認識できない)と、やはり無いようなものではないか。(なんか永遠じゃなくて存在のような話になっていますが、ご容赦ください) でも一方ではこういう永遠はあるのでは?と思いました。 ・「私は今22歳だ。もう21歳に戻ることは永遠に出来ない」 確かに、これは永遠です。でも上で挙げた永遠とは違う気がします。私が疑問に思っている 永遠は「ずっと続くもの」と考えていますが、22歳の例の永遠は「過ぎ去ったことに対するもので それがもう未来には来ないもの」だと思います。 と、いうわけで私が出した結論は「未来永劫ずっと続くものは存在しない。永遠は無い」ということです。 しかし、少ない脳みそで考えたのでまだ疑問が残ります。 永遠は存在しますか?あるのなら何か例を挙げて頂けれると嬉しいです。 言葉足らずな面もあると思いますが、よろしくお願いします。
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- 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
《すべての人に対してすべてのものになりました》とは たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか? ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~ 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです。 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 律法に支配されている人を得るためです。 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、 律法を持たない人に対しては、 律法を持たない人のようになりました。 律法を持たない人を得るためです。 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。 弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。 そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。 たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていましたか? さて問います。 (α) 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? (β) ひょっとしてこの文章は パウロが宣教の活動にかぎって言っているのでしょうか? おしえてください。 * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。 高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。
- 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
《すべての人に対してすべてのものになりました》とは たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか? ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~ 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです。 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 律法に支配されている人を得るためです。 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、 律法を持たない人に対しては、 律法を持たない人のようになりました。 律法を持たない人を得るためです。 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。 弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。 そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。 たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていましたか? さて問います。 (α) 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? (β) ひょっとしてこの文章は パウロが宣教の活動にかぎって言っているのでしょうか? おしえてください。 * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。 高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。
- 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき)
闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには(つづき) (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。 この主題についてあらためて問います。何かを論破するためだけのものではないかとの批判を受けてのことでもあります。それについては この命題は そのとおり論理を問題にしているという答えなのですが ほかの見方による批判についても 受けつけたいと思いました。 (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。 (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。 キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。 (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。 (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。 (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。 念のために言えばこれは 哲学です。よろしくどうぞ。 * この哲学だけでは 中国の理不尽さには対抗できないという情けなさを噛みしめつつの再掲でもあります。その中国脅威論をからませてもご投稿ください。
- 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは
《すべての人に対してすべてのものになりました》とは たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか? ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~ 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、 すべての人の奴隷になりました。 できるだけ多くの人を得るためです。 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては、 わたし自身はそうではないのですが、 律法に支配されている人のようになりました。 律法に支配されている人を得るためです。 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、 キリストの律法に従っているのですが、 律法を持たない人に対しては、 律法を持たない人のようになりました。 律法を持たない人を得るためです。 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。 弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 何とかして何人かでも救うためです。 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。 ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。 そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。 たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていましたか? さて問います。 (α) 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか? (β) ひょっとしてこの文章は パウロが宣教の活動にかぎって言っているのでしょうか? おしえてください。 * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。 高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。
- どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
- どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
- どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
- どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
- どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~ たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか? 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。