長文で失礼します。
文化大革命の方をとりあげてみたいと思います。
もともと文革(正式名称はプロレタリアート文化大革命)というのはつきつめていくと毛沢東と劉少奇(当時の共産党の実力者で実権派と呼ばれていた)の路線対立から発生した党内抗争が発端です。大躍進運動と呼ばれる中国の発展計画が大失敗に終わった50年代終盤、劉少奇ら実権派と呼ばれる勢力は市場経済方式の一部導入などをおこなうことで、人民の意欲増進を狙おうとしました。
しかしそんな資本主義的雰囲気は当然毛沢東ら革命的実力者たちは気に入りません。この時代、中国の文化人たちは共産主義体制に対しその嫌悪感を文学的手法によって表明していました。また彼らの政治的擁護者は劉少奇でした。そこで毛沢東の一派はまず文化人たちの批判をおこないます。その背景には彼ら文化人の擁護者であった劉少奇の追い落としにありました。
劉少奇の追い落としだけですめばまだよかったのかもしれませんが、毛沢東は自身の絶対化を推し進めます。同時に資本主義に被れているという理由で劉少奇と 小平を正解から追い落とし、様々な集会を組織して人民を己の絶対化と実権派排除の熱狂に追い込んでいきました。このために組織された紅衛兵は、のちに毛主義の実働部隊として様々な暴虐を働くにいたります。
その暴虐の理由は、実権派が被れているとされたブルジョワ的思想や方法の排除にありました。劉少奇などはブルジョワ思想にかぶれている、それは本来の革命的あり方と敵対するものだ、よってそれらは絶対に排除されなければならない。次第にその行動は道行く人の服装や容姿、言動に対してまでなされるようになりました。そしてブルジョワ思想の担い手であるとされた知識人階級の粛清が当然のごとく、栄光と歓喜の中で行われることになるのです。
知識人はそのもてる知識と言語能力によって、体制に対し時に民衆を扇動、先導し打ち倒す原動力となりうる存在です。当然、体制にとっては邪魔者であることも多々あり、文革の実質的指導者であった四人組は徹底的な粛清に乗り出します。すでに神格化の兆しさえあった毛沢東の威光に逆らえる人民などほとんどおらず、むしろ積極的に粛清へと荷担していきます。
一度勢いのついた人間の集団は、求心力となる核がなくなるかそれ以上の力を持つ権威が登場するまで膨張を続けます。反ブルジョワジー、反修正主義、反インテリの嵐は、十年以上中国を吹き荒れることになり、毛沢東が死に華国鋒が実権を握り、四人組を追い落とすまで続くことになります。その間殺された人民の数は、大躍進時代から通算して二千万人という説もあるようです。
知識人階級は生産性と結びついていないという単純な理由は、一般人には大変わかりやすいだけに、インテリやインテリと思われた者、ただ単に嫌いだった人をもインテリとされた者、すべて含めて迫害の対象になりました。この大混乱は、ベトナム戦争の反米思想と結びつき、日本でも大きな影響を与えることになります。ちなみに当時の日本では知識人や進歩的文化人とよばれた人々が文化大革命を大絶賛しています(笑)。
多分に共産主義思想の根底に流れる平等思想というものは、余りにも理性的であろうとするドイツ観念論の反動からかやたらに一般人を誘惑する力があるようで、知識人批判というものも根はこれに行き着くのではないかと考えます。平等を実現するためには非理性的なものは排していかないといけない、宗教や愛や大衆文学などは不要である、文化の担い手たる知識人など、不要の極みであるというわけです。
いらぬものと一度判断すれば、それを捨てるのに何のためらいがあるでしょうか。いや、判断すらせず、誰かが熱狂の中で言い出したことを誰が判断するでししょうか。魅惑的な正義という阿片が大流行するのはどこの国でも同じですが、それが極端に人民の中で先鋭化してしまった一例が文化大革命であるといえないでしょうか。
お礼
また回答していただき、ありがとうございます。 納得できました!