頼り方にも拠るんだと思う。まさかの友は、真の友。今の自分が苦しくて、誰かに話を聞いてもらいたいと思った時、真っ先にその人の顔が浮かんだのであれば、あなたはその友達を「評価」しているという事になる。評価されて嫌だなと思う人はいない。接点が無い相手からの身に余る評価は咀嚼し難いけれど、あなたがそのお友達に話を聞いてもらいたいと思っているという事は、あなた的にもそれなりに親しさという足元があるという自負があり、その足元に基づいてその友達を選んでいる。あなたは逆の立場としてどうか?話をちゃんと受け止めてもらえると相手から評価されたとしてどうか?別に嫌じゃない、むしろ私自身でよければ出来る範囲で応じたい。応じてあげたい。そういう気持ちが少しでもあるなら、あなたはあなたの知っているそのお友達を信じて動いてみれば良い。今は素直にその力を借りる。借りは後で返す事も出来る。そもそもあなたから辛くて重たい話を聞かされたとしても、お友達がそのお裾分けを背負う訳じゃない。むしろ聞く事位しか出来ない。あなたの代わりにはなれないし、あなたの立場にチェンジする事も出来ないから。解決はあなた自身がしなければいけない。仮に話を聞いてもらったとしても、あなたがすべき事は変わらない。何よりお友達にとってあなたが今抱えている辛さを受け止められる範囲には限界がある。限界がある時点で、逆に言えば迷惑もかからない。本当にあなたが書いている通りなんだと思う。ショックな事や辛い事が単体で起きていたり、間を空けて生じているならまだ受け止められる。今のあなたを苦しくしているのは「重なり」の部分。一つ一つなら受け止められても、重なりとしての重さが生じるとしんどさが一気に増してしまう。しかもぼんやりとしたしんどさとして重くのしかかる。その状態が実は一番辛い。その重なりの部分を客観的に整理する為に、時には誰かに話を聞いてもらったり、受け止めてもらう事もある。あなた自身は重なているような自覚が無くても、お友達から見たらあなたの重なりが良く見える場合もある。自分の外に吐き出すだけでも重なりからの脱却の作用があり、その吐き出したものを受け止めてもらえる相手がいれば、更にその整理はしやすくなる。実質お友達は、あなた自身が独力で整理をする為の壁の役割になる。テニスの壁打ちを想像してみれば良い。壁が無い場所でボールを打ったら、打ったボールを拾うのもあなた自身がやらなければいけない。お友達に相談相手や話し相手という壁になってもらう事で、そのボールのリバウンドを拾う作業がしやすくなる。その作業でありラリーがあなた自身の心の整理になる。そう考えてみたら、お友達の負担はそこまで無いということが分かるはず。あなたはあなた自身が弾くボールの速さをお友達を介して受け止めているだけだから。お友達は壁としてあなたに対して返しているだけ。それ位余裕で出来る。あなたはお友達の元気を奪う事を恐れているけれど、そもそもあなたにお友達の溢れる元気を奪う力は無い。変な言い方になるけれど、あなた一人に奪れるレベルの小さな元気では無い。あなたは素直に元気のお裾分けを頂けば良い。こうして話を聞いてもらおうと行動に起こす前に悩んでいる時点で、あなたは自分のしんどさを丸投げするようなタイプでは無いから。もっともっとそのお友達を信じてみたら?今のあなたには幸運にも、話を聞いてもらいたいと思える相手が「いる」んだから。まさかの友は、真の友。お友達を通じてしんどさの重なりを外せるように。大切にしてみて☆
お礼
ご回答ありがとうございます。 「評価されて嫌だなと思う人はいない」「今は素直にその力を借りる」「あなたにお友達の溢れる元気を奪う力は無い」など、本当におっしゃる通りですね。 友人を信じて、話してみようと思えました! また、私のしんどさについても「その状態が実は一番辛い」と受け止めていただけて、なんだか心が軽くなりました。 人に理解してもらえるとこんなにも違うんだなと、感謝しかありません。ありがとうございます! 私も誰かにこんな優しい言葉をかけられる人間になりたいです。