※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:昔の国士館等について)
国士舘大学の暴力的な実態とその意義:栗山圭介氏の『国士館物語』から考察
このQ&Aのポイント
国士舘大学の実態には入学後の殴り合いの喧嘩や序列形成が描かれた『国士館物語』により明らかになっています。
一部の人々は暴力と喧嘩を通じて社会的序列を築きたいという本能が強い傾向があるようです。
国士舘大学のような組織が存在することは、闘争心のある人々を活用するために必要とされていると言えます。また、彼らは非日常的な喧嘩暴力の世界を日常とし、それがない世界が非日常となる傾向があるようです。
良い悪いは別にして、何故国士舘大学は暴力的なのでしょうか?
栗山圭介氏の自伝的小説『国士館物語』を読むと、
入学した直後から誰が強いかを決める殴り合いの喧嘩が始まる、
そこでクラスや部活動(上下関係は別として同期の)序列が作られていくという様な事が描かれておりました。
罰則としての軽い体罰は否定しませんし、時にはモチベーションを上げる事で根性論など(私も部活動や新人研修の時などでありましたが)も必要かとも思った事もありましたが、その事を差し引いても
「意味も無く殴る」「その生存競争に勝った者だけが偉い」と云う感覚には賛同できません。
私は幼稚園でも小学校でも「意味のない暴力や喧嘩」は嫌いでしたが、やはりその暴力性を使いたい、故に喧嘩をする→序列を作る的な本能が強い人は居るという事なのでしょうか?
その様な人の為に上述の様な組織があるのでしょうか?
私は幼稚園から中学まで一緒だった近所の同級生に
「鍛えてやっているのに根性が無い」
「俺を倒せ そうしないから俺に従え」と云われ、
彼は暴力や恫喝を繰り返してきました。
彼自身も親や家族から罰則ではなく「強く成れ」と喧嘩で負けると
暴力、食事も兄弟で喧嘩して勝てば食べられる負ければ食べられないという躾をされました。
彼からすると私が「得意不得意はあるが別にここを支配したいとは
思わないし、強いから何でも許されるとは思わないし、弱くても
全く受け入れられない事は無いと思う」「別に自分の領分が守れたらそれでいい」と云う事が彼には理解出来なかった様です。
彼からすると「私が普通に学校に来て授業を受け給食を食べている事」が甘えているそうです。彼自身家庭でも喧嘩に勝たないと食事を与えて貰えなかったそうなので。
現在でも苛めはパワハラ等の問題はありますが、彼らの様な気質を有効にさせる事が出来るので上述の大学のような組織も必要と云う事に成るのでしょうか?
そして、彼らの方が闘争心はあるので、使えるという事に成るのでしょうか?
又『国士館物語』でも「拳を懐に仕舞う事に勇気がいる」という表現がありましたが、彼等は喧嘩暴力が日常で、それが無い世界が非日常と云う事に成るのでしょうか?
そして、非道をしなくてもこの様な感覚に馴染めない人は駄目な存在と成るのでしょうか?
短い台詞ですが、漫画『じゃりン子チエ』より
小林マサル「お土産です、皆さんで食べて下さい」
竹本テツ「うちは早いもんが食うんや」
花井渉「勝ち負けではない 参加する事に意義が」
竹本テツ「たまらんなあ調子狂うで」
おジイはん(テツの父)「儂、喧嘩嫌いやさかい」
竹本テツ「あんな奴から生まれたの奇跡とちやうか」
つまり、動物的な本能を存分に発揮できる。
その単純な喧嘩の勝負には闘争心と努力を惜しまない。
(現在では科学的手法も取り入れる様に成ったが)
その延長線上で昔は球技なら野球か格技なら相撲と云う道に
進んでいく。
そこで身を置く事により、暴走は止められるという構図なのでしょうか?
ご回答戴ければ幸かと思います。
補足
現在では大分変わって来ましたが、 1970年代に某高校野球の強豪校の監督が 「不良になるか野球に打ち込むかという感じでやっている子が好きで」「以上でも以下でも無いという感じの子は非道はせず問題は無いがどう扱ってよいか解らない」と云う様な事を云っていたと思います。 多分自身もその様な体制のみで来たので、それが受け入れられない事が理解できないという事だったのだろうと思います。 昔の映画などを見ると殴り合う事で立ち位置を確認したり、する場面もあります、これが合う人は合うが合わない人と云うのが理解できないのかとも思えます。