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崇教真光と上手に関わっていく
私の家族は全員崇教真光に入信しております 親戚も入信していたり、していない人もいます 私は3人姉弟の次女で、私たちが生まれた頃から既に周りには真光がありましたので、この家族がいつから真光と関わっているのかは全く知りません。物心ついていない時から側にあったので、それ中心に過ごすことが当たり前のようになっていましたが、中学高校大学と大きくなるにつれ、真光のことについて煩く言ってくることや、真光に時間をとられる事が煩わしくなって、毛嫌いするようになりました。おみたまも実家に置きっぱなしにし、帰省した時に母に促され、つけるくらいでした。母親は昔から色んな体験をしているそうで、その体験談を話されたり、他の人の体験談を話してきたりします。私はすごく怖がりで、霊の話をされ、清まることで、悪い霊はやってこない、良い霊のみ寄ってきていろんなことから(事故や病気)助けてくれるとの内容で、ビビってお母さんの指示に従っていました。実際、母が父のおきよめをしているときに、父がふれい?霊が父に乗り移る?ようなのを見たことがあります だから一切信じていないと言うわけではないし、両親のことも好きですし、親孝行したいと思っています。 ですが、結婚し、子供が生まれた今、やたらとその話をしてくるようになり、子供が生まれたばっかりで里帰りしているのですが、里帰りが終わり、家に帰る時はおみたまを持っていってねと言われて断ると、お母さんにすごく悲しまれて、それが必要な時代になってきてるんよ、と言われたりします 父は何もしつこくは言ってきません 私は、真光中心の生活を送りたくはないと思っていて、両親には申し訳ないけど、あまり関わりたくないと思っています でもたまには親の言うこともきいて、うまいこと関わっていけたらいいなと思いますが、旦那や、子供をしつこく入信させようとしないか心配です。 産後間もないこともあってか、色んなことを考え涙が出てきます。これは単に悩みすぎなのでしょうか 的確なアドバイス宜しくお願いします ちなみに、実家には御神体があります
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専門的な習慣や慣例は私自身全く分かりませんのでご了承ください。 ただ目に留まったのは、 >旦那や、子供をしつこく入信させようとしないか心配です。 仏教、西?東? キリスト教、プロテスタント?カトリック?と言っている分には良いのですが、、、弱小宗派の場合、広く浅く資金を集めるか?狭く多く資金を集めるか?の目標を掲げないと建屋、教会が維持出来ませんので、パフォーマンスを繰り広げて呼び込みに掛かります。 その下部の信者は、「絶対」ですので悪気無く大いに考えられます。 そこのところは、いまのうち旦那に全てを話して、事あればスパッと言って貰うのがなによりでしょう。 「娘さんを嫁にいただいたことは感謝しております。が、それとこれとは別です。 私や子供の前でその話が出た際には、今後一切、私、子供が義実家へ寄ることはないでしょう。 私自身、それを願っているわけではありません。 如何か宗教選択の自由を重んじてください。」と頭を下げて貰うのが先ず第一弾だと思います。
- sutorama
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信仰と思考のぶつかり合いでしょう 信仰心のダメな部分は、思考を停止させることです なぜ?どうして?などの思考が全て教義によって封じ込まれるのです 総じてそのような宗教は、生まれながらにして障碍を持っている人についての説明が曖昧です そのことに触れると、霊的な世界の教義説明に終始され懐疑的になり、私もその手の宗教から離れられたキッカケになりました なんでなんだろう?と、人は日々、わからないことや悩みにぶつかり、時には人の経験や言葉や創作物に学び、それでも自分の中で思考をめぐらし、行動して経験し、自分なりの言葉や考え方を成長させていきます そこに一定の教義は存在せず多くの人が、人を幸せにしています 一方で、日常の疑問や悩みや苦労をムリクリなんでも教義で説明されては、思考能力が停止します しかし一方で、その協議にどっぷり嵌り、幸せと感じている人がいることも事実です つまりは、互いを否定してはいけないのが、本来の様々な宗教の目的でしょう またまた一方で、今の世界では、わからないことがあれば、親や家族、友人知人に聞くのではなく、スマホやPCで検索したりすれば、ある程度の知識が流れてきますから、これも一種の教義のような宗教世界に近づいているとは思います いわゆる混沌の世界ですが、それでも人は教義に頼らず、思考を進めたほうが人間らしい生き方であると思います また、どの世界も、価値観の押しつけはいけないことです しかし、お母様にしたら、質問者様の幸せを願ってのことでしょうから、あなたが今・これからの姿で、教義・みたまに頼らずとも、幸せであることを示していくことが大切かと思います
- citytombi
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大前提として、真光であろうが何であろうが思想・信条・信仰の自由は保障されていますから、実家がこうだからと言って「やる・やらない」は自由です。 熱狂的に信仰している人はそれしか信じない(それが全て、当たり前と思っていますから)ですから、しつこく・執拗に言ってくるのは当然でしょう。 ここは、「家庭を持って独立した家族を営んでいるのですから、そういう信仰は別です。私は嫁いだのですから、干渉は無用です」と言いましょう。 それしかありません。
お礼
回答ありがとうございます
お礼
回答ありがとうございます 回答者様の言う通りだと思いました