その先生に会いたくて、
本来は苦痛にもなりかねない通院ロードが明るくなる事。
それは、
片思いの先生からしても嬉しい事なのかもしれない。
貴方自身、
片思いという熱源がある事で、
自らの通院&治療にも前向きに向き合いやすくなる。
本来はそれで成立なんだよ。
それが(思いの)意味。
貴方のその(片)思いは、
動かさずにただ自分の中で感じる(育む)もの。
ただそこにある事、
それ自体が意味そのもの。
告白って動かす行為。
ただそこにある事だけでは満たされずに、
自分だけで成立していた思いの中身を、
相手側にも伝える事で世界を広げようとする行為。
曖昧さを嫌い、
自分の思いに正式名称を付けたくなる行為。
ただ・・・
貴方も分かっているように、
貴方の片思いは貴方側でしか成立していない世界。
伝えられても、
先生にはその思いの強さや過程が分からない。
思いは相手「と」育んでいくもの。
貴方は自分「で」育んでいる。
自分で育んだ思いを、
エイッと相手に届けてもそれは伝わらない。
貴方は通院での接点を私的な感覚で捉えている。
だから都合良く好意を育む事が出来てしまう。
それに対して、
先生が貴方と向き合う時間(空間)
それは先生にとっては完全に公の世界。
公の世界に私的な感情は持ち込まれていない。
貴方にとって通院(受診)は恋愛兼用。
公の接点でも私的に扱えてしまう。
先生は全く兼ねていない。
私的な感情は兼ねずに貴方と向き合っている。
勿論貴方以外の他の患者にも。
その違いはとてもとても大きい。
告白してきた事、
それ自体を一つの評価として捉える事は出来るよ。
貴方から(告白を通じて)評価された事、
それ自体を嫌悪をする事も無いんだと思う。
ただ・・・
その評価は彼自身欲していない評価。
私的な世界を全く提供していない相手から、
超私的な感情を持ち込まれる事の難しさ。
好きになってもらうのは大いに結構。
それを極々個人的に扱って、
その感情自体を貴方の日々に活かしてもらう事。
そこまでは全然構わない世界(範囲)
でも、
それ以上は難しい。
相手あっての思い。
受け止める相手あっての思い。
自分だけの世界で成立していた思いを、
エイッと越境して伝えてこられると・・・
それに対しては厳しく望まないといけなくなる。
厳しさとは否定では無く、メリハリ。
先生として、
患者の貴方に提供する優しさ。
それを我田引水されて、
私的な栄養にされても困る。
あくまで公の範囲でのコミュニケーション。
あくまで公の範囲で分かち合える親しさ。
それを分かって貰う為には、
ある程度目を覚まさせる言葉は使わないといけなくなる。
それは、
貴方からすれば厳しい否定のように聞こえてしまう。
はみ出した自分が幼稚で恥ずかしくなる。
相手を知らな過ぎるが故に、
都合良く見える範囲だけで発情した自分が恥ずかしくなる。
恋愛兼用状態を晒してしまった分、
恋愛だけを排除して一患者として受診に臨む事。
それがとても苦しく感じてしまう。
先生側に気まずさなんて無いんだよ。
自分は何も動いていないから。
勝手に動いてきた相手(貴方)に対して、
クッション付で元の位置に戻してあげただけだから。
仮に貴方の告白を退けても、
その後も変わらない対応が出来る。
先生として、
一患者である貴方を診る事は普通に出来る。
気まずさは、動いた側にしか生まれない。
貴方も本当は分かっている筈だよ?
良いなと思える先生に診て貰える事で、
今まで以上に前向きに通院闘病が出来る。
その時点で既に貴方は「得て」いる。
得ている自分を感じて、
納得して笑顔になれるかどうか?
それ以上が欲しくなる気持ちも分かるけれど。
受け止める相手あってこそ活きた思い。
思いは相手「と」育んでこそ。
病院(受診)は思いの育み場所じゃない。
しっかり心身のケアをして、
健やかに目の前の日々に臨んでいけると良いよね☆
お礼
回答ありがとうございます! ほんと担当医の先生に当たったのは正解だったと思います。話も分かりやすいし、欠点なんてありません。好きになった・・・という点では、論点?がズレてますが、会えることの楽しみがあり、治療頑張ろうと前向きにはなれます。 ずっと片思いのままで終わると思います。良ければ、そっちも良い方向にいけば良いですが、そういうわけにはいきませんよね。何しに病院行ってるんだって話なので。