• 締切済み

障害者と健常者

皆様、こんにちは。 私は、視覚と聴覚の二重の障害者です。 健常者も障害者も、関係なく、いろいろ大変なことがあるのでしょうね。 障害者だから健常者の支配下におかれるということではなくて、健常者もやはり何らかの支配を受けることがあるのでしょうか? 障害者だから健常者の支配下に置かれているんだというのは、間違っているんですね。 多少は皆様のお世話になりながらも、決定権は障害者自身にあると思います。 健常者が勝手に決めるというのは、人権侵害にあたると、私は考えています。ただし、自分の責任となることは当然です。 健常者にもいろいろ大変なこと、辛いこと、自分の思うようにならないことがあるんでしょうか? 障害者も健常者も対等に考えるとしたら、みんな同じだろうなと思います。 障害者同士でも、意見の違いがありますから、どうも健常者も障害者も、立場が違うだけで、関係ない気がしています。 障害者も、無理解なことを言われたりして辛いこととか大変なことは、たくさんあります。不便なところはあるとしても、それは皆様のお世話になりながら、やっております。 私の父親は、冷静な目で見ていて、障害は関係ないと言ってくれます。すべて合うわけではないのは当たり前です。 健常者の方だって、家庭の悩みなど様々あることですから、こう考えると健常者も障害者も関係ない気がしてきました。 時には、家族が思いやりがないと感じることもありますが、これは誰にだってあることでしょうね。私自身だって、相手に思いやりを持って接しているかというと、そうとも限らないのではと感じています。 やはりお互い様ということでしょうか。 皆様、感じたことをどしどしお寄せください。健常者も障害者も関係ないです。どなたでもどうぞ。

みんなの回答

  • king_kuro
  • ベストアンサー率39% (49/125)
回答No.2

障害者だの健常者だので不当に上下関係が決まるなんてことは無いと思いますが、障害者になった訳では無いのでそういう事もあるかも知れないとしか言えません。 ただ、当方ヘルニアで入院中なんですが、トイレも自分で行けないのは人間じゃないとか、障害者の殺傷事件を擁護する発言が一部の看護師から聞こえた時は驚きました。 意見用紙にしっかり名指しで書いて、触れ回っておきましたけどね。 そういう人も中にはいると言うことです。 私の妻は聴覚障害者ですが、困ったときは私が耳を貸してあげればすむ話です。 何の苦でもないし、障害者のハンデをフォローするのは健常者の義務だと思っています。 と言うより、困ったときはお互い様精神です。 程度によっては大変だなぁ、余り見られると嫌だろうなぁとか思ったりしますが、健常者を優遇する様な意識はしたことはありません。 最近嫌だったことは、 満員でも優先座席に健常者が座ってること。 これは、本当に健常者かどうかは聞いてみないと分からないですが、涼しい顔して音楽聞きながらスマホ弄ってる様な人達。 つり革に必死に捕まってるご老体もお構い無し、醜いなと思いました。 逆にバスでお爺さんが座っていた赤いランドセルの女の子に『お嬢ちゃん、若いんだからおじさんに席譲ってくれないか』と言って譲って貰ってましたが、その女の子義足でした。 お爺さんは最後まで気づいてなかったですが… 最後に駅のホームにあるエレベーターに健常者が群がって障害者が階段から降りているのを見て腹が煮えくり返りました。 自分のことばかり考えてる人が多すぎる、障害者にも厳しい世の中かもしれない。

suienn
質問者

お礼

率直な回答、ありがとうございました。 世の中ですから、いろいろな立場の方がいるのは、当然ですが、障害者に限らず、弱者、例えば一時的に怪我などで松葉杖をついていたりとかなどの方がいたら、席をゆずるのは当たり前ですよね。 健常者の方が、自分中心であると思う部分もありますが、自分が経験していないからだと思います。 お互いに相手を思いやるべきでしょう。 健常者も障害者もたいへんな世の中と言えますね。 自分が相手の身になって考えるというのが大事かな。 とは言え、自分も知らず知らずのうちに相手を傷つけているかも‥‥

  • SEI-R
  • ベストアンサー率31% (361/1146)
回答No.1

健常者も障害者も等しく人権を持っており、対等なものだと認識しています。 しかし、どうしても日常生活にハンデがある障害者の方は、健常者に頼らなければならないのが現実。 おそらく障害者の方の考える「対等」と、健常者の方が考える「対等」は、根っこの所で似て非なるものなんだと思います。 障害者の方も好きで障害を持たれたわけではないでしょう。 しかし、だからといって即ち健常者が負担をおわなければならない、ということもありません。 健常者と障害者は、相互理解と関係性の上で成り立つものだと思っています。 家族であっても、違う心を持っている存在である以上、当然のように理解するのは不可能です。 人間は損得勘定で動く生き物です。 一見無償で動いていても「自己満足」も立派な得です。 もちろん、良かれと思ってやりますが、例えば障害者の方であっても、態度が悪かったり、手伝っても感謝もぜず、「当たり前だろ」と言うような人は、助けたくなくなるでしょう。 ちなみにそれは障害者だからではなく、健常者同士でも同じ事です。 そういう意味での対等だと思っています。 お互いの信頼関係であり、障害者だからと卑屈になる必要もありませんが、逆に対等に扱ってほしいと言いつつ、支えられるのは当然だから別、という考え方もしてほしくありません。 重要なのは「感謝の気持ち」であって、それがない人は健常者でも障害者でも「対等」に悪く扱われるでしょう。 健常者側の意見を言わせていただくと、酷いと言われるかもしれませんが、障害者の方を支えるのは「当然」でもなければ「義務」でもありません。 あくまでも「厚意」です。 「かわいそう」と思われたくない、とよく障害者の方は言われますが、私から言わせていただけるのならば、「かわいそう」と思うからこそ「助けよう」と感じるものです。 「かわいそう」だと思わないのならば、「助けよう」とは思いづらい。 障害者の方に分かっていただきたいのは「かわいそう」は決してマイナスな感情ではなく、蔑んでいるわけでもありません。 お気持ちは察しますが、「かわいそう」とすら思われない人の方が不幸だと思っていただきたい。 そして、「かわいそう」だからと手を差し伸べたとしても、それも優しさであることに変わりはなく、健常者にも負担になることでもある、ということを分かっていただきたい。

suienn
質問者

お礼

率直なご意見、ありがとうございました。 健常者の方の気持ちも知りたかったので、良かったです。 お互い支え合いながらというのが一番ですね。 私はいつも感謝の気持ちを伝えます。ありがとうございました を必ず伝えます。善意でやってくれると思うからです。 申し訳ないと言う気持ちも持っています。 健常者どうしでも、何かしてもらって、お礼の言葉がないとむかつくと思います。 ここら辺は同じだと思います。

関連するQ&A