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感情表現をする時に、冷静な自分がいます

21歳女です。 うつ病、自律神経失調症、パニック障害、強迫性障害などいろいろと言われながら7年近く患っています。 タイトルの通りなのですが、怒ったり笑ったりする時に、常に冷静な自分がいます。 ここ1年ほどの話なのですが、具体的にどのような状況かというと、最初は怒っている時にそういった感覚がありました。 私はとても怒りっぽく、一人でイライラして、物に当たってしまう時があるのですが、表に出ている自分は怒り狂って物を壊そうとするのに、頭の中では、それを壊すほどのことか?そんなに怒るほどのことか?と囁かれます。 一時の感情でこれを壊したら後悔するのではないか、というようなものとは一切違う、妙に落ち着いた、事なかれ主義の自分が出てきます。 笑っている時もそうです。誰かと話していて笑うのですが、頭の中で、それはそんなに面白いのか?そんなことで笑っていたら、今後もそんなようなことで笑わなければいけないよ、と言われます。 怒られている時も、落ち込む反面で、怒られてやんの、と他人事のように見ている自分がおり、泣きたい時も、泣くほどのことではないじゃないか、可哀想ぶりたいのか?と言ってくる自分がいます。 いざ死にたいと思う時もあり、怖いけど死ぬべきだ、とウダウダしている時は、今ならいける!やれ!と背中を押してきたり、今はまだやり残したことがあるからやめておいた方がいい、と止めてきたりします。 衝動と理性が全く別の人間として別れてしまったみたいです。ただ、自分の方は衝動なので、見た感じは何も変わりがないと思います。 自分の中でそういう、声?がするわけではないのですが、囁かれるというだけで、生活に支障はありません。声の方がまともで理性的です。ただ、何事もなんでもいいと思い過ぎです。 これも、うつ病の症状の一つなのでしょうか?病院で相談したことはありません。

みんなの回答

回答No.2

質問者さまの怒りの根源は、何なのでしょうね。 それを見つけ出すために、これまでに感じた あらゆる怒りをカードか、紙に書き出してみませんか。 それが済んだら、分類&整理して、各グループごとに タイトルを付してみませんか。 [怒りをモノにぶつけて、どのような カタルシスが得られたのかも、付記しておきませんか] こうして得られたカードまたはペーパーを 精神科の(有る)病院に持参して、受付に提示すれば、 適切な診察が受けられますが、いままでに多くの 精神科医の診察を受けているのであれば、精神科の 診断に、MRI・光トポグラフィー・血液検査etc.を 採用している病院を訪れてみることをお勧めしたいです。 [質問者さまの所謂 幻聴っぽい状況は、 分裂病(=精神分裂病=Schizophrenia=統合失調症)を 想わせ、ちょっと心配になっています] 〈ふろく〉 日ごろ、気持ちを抑制しているということはありませんか。 あるいは、挫折(感)を引き摺っているということは ないでしょうか。長い間叶わずにいる願望・希望・要望etc.は ないでしょうか。そうしたことの暗躍がありますと穏やかな 気持ちで暮らせませんので、適切にクリアすることです。 また、防腐剤が含まれている食品を摂取しないようにすることで、 イライラや怒りが減少して行くでしょう。 それと、垂直思考を休止することをお勧めしたいです。 うつ病には、6種あります。気になるようでしたら その6種に就いて丁寧に知ってみませんか。 図書館で借りるなどして、 『なにがあっても、ありがとう』 『無名兵士の言葉  人間を幸せにするものは何か』 を読んでみませんか。 森瑤子さんの『女ざかりの痛み』も おススメです。 自身に嘘をつかず、 自身を欺かず、 自身を騙さず、 自身の気持ちや感情に 正直に暮らしつづけていれば、 質問者さまにいいことが起きつづけるように なるでしょう。万一、嫌な人がいるとしたら マイナスの恩人と思うことができれば質問者さまは 進化したことになります。 早期に、 穏やかな気持ちで暮らせるようになると いいですね。 『なにがあっても、ありがとう』 感謝を忘れないでいれば、自然に 笑顔になれるでしょう。 マイナスの恩人 は、検索してみてください。 【ものごとは努力によって解決しない。 ジッドウ・クリシュナムルティ】 CiaoCiao! All the Best.

mwgam5
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 怒りの根源はよく分からず、病気のせいだとか、もともとの気質だと思ってきました。なので、事なかれ主義の自分にとても違和感を覚えます。昔から怒りっぽかったかどうかと親に聞くと、溜め込んで爆発するタイプだと言われるので、最近の怒りっぽさは何らかのせいで我慢がきかなくなっているのかもしれません。もともと、気にかかることは多い性分なのかもしれません。 精神科と心療内科の違いは最近知り始めましたが、精神科にはほとんどかかったことがありません。心療内科での診察はうつだったり躁鬱だったり、はっきりと区別はつかない感じです。 数値などではっきりと病名が分かるのならそういった検査を一度受けてみたいと思います。今は学校が忙しくて無理ですが、就職する前に一度受けてみたいです。 日ごろ、気持ちを抑制しているということ、あるいは、挫折(感)を引き摺っているということは、ということは、よくあります。本当のことは喋れず、自分に対して否定的すぎると言われます。どちらも自分で抑制してきました。私は真面目だったので褒められることが多く、病気に関連することを除けば挫折と感じることはありませんでしたが、何でもかんでも出来が良いわけでもないのに、尊大になりそうで怖いからです。 希望というほど大それたものではありませんが、やりたいと思ったことは、病気でありながらして自分でもよく叶えてきた方だと思っています。 ただ、どんな嬉しいことや達成感を味わっても、生きていること自体が苦痛に感じることがあります。嬉しさを感じなくてもいいから今後の苦痛も無くしてほしいと願っています。

回答No.1

30代男性です。過去に何度かうつ病を経験しています。 うつ病とは少し違うと思いますが、大きな視点からみると、うつ病の一種であると言えるかもしれません。うつ病は、今までの自分のやり方が完全に行き詰って、どうあっても新しい生き方を自ら作り出さねばならないような状態におかれたとき、発症します。いわば、完全なる「自己否定」です。 「自分」というものを客観的に見て、何かが違う、と感じているのであれば、それはうつ病の入り口に立っている、と言ってもいいかもしれません。そのままの状態からうつ病が発症することは少ないと思いますが、環境の変化により外圧が強まり、どうしてもこれ以上自分では問題を解決できない、というところまで追いつめられると、おそらく、それはうつ病と呼ばれる状態になり、様々な社会的地位を捨て(あるいはいったんそれを凍結して)、生死の境をさまようことになるのだと思います。 おそらく、このような問題が起こるのは、「社会的に求められている自分」と「実際の自分」との間に、「ずれ」が生じているからではないか、と僕は考えています。 では、なぜ、「社会的な自分」と「実際の自分」との間に、「ずれ」が生じるのでしょう。おそらく、それを知ることが、うつ病を知る手がかりになるのではないでしょうか。 …普段、我々は、様々な人との「関係」の中で生活しています。「関係」なくして、私たちは生きていくことができません。たとえ、人里離れた山奥に住んでいたとしても、彼は様々な自然と、あるいは、遠く離れた「社会」と、関係しているかもしれないのです。「関係」は私たちの生活にとって、必要不可欠なものです。 では、そのように、我々にとって、欠かすことのできない「関係」が、果たして「選択可能なもの」なのかどうか、という問題があると思います。 どのように思いますか?果たして、「関係」とは、選択可能であり、いつでも交換できるようなものなのでしょうか。それとも、はじめから決まっているもの、絶対に逃れられない「網(あみ)」のようなものなのでしょうか。 もし、我々にとって必要不可欠である「関係」が、はじめから決まっていて、絶対に逃れられない「網(あみ)」のようなものだとしたら、我々の生活に、ほとんど「自由」は存在しない、ということになりますね。常に同じような「関係」を続け、それ以外の可能性というのは、一切否定されてしまうわけです。 しかし、もし、「関係」を自分の好きなように選べるのだとすれば、人生において、ありとあらゆる可能性が存在している、ということになるのではないでしょうか。…どうでしょうか。どのようにお思いになりますか? …もちろん、「完全に自由な関係」というのは、相手にとってもそれが言えるわけで、結局、突きつめていくと、そこに自由というものはない、ということになるのかもしれませんが。安定的に関係を続けるためには、常にどちらかが我慢する必要性があるのかもしれませんね。 …この問題に、より深く探りを入れていくとすると、果たして、「関係」は機械的なものなのか、それとも、受動的、自発的なものなのかどうか、という問題があると思います。「機械的」というのは、「固定的」である、即座のものである、という意味です。それに対し、「受動的」「自発的」とは、その時々に応じて、全く違った対応をすることが可能である、という意味です。 「社会」は、何よりも安定を求めているので、我々に対し、常に同じような対応、すなわち「機械的」であることを要求してきます。それに対し、実際の我々自身というのは、実際には、「受動的」「自発的」であり、また、そうありたい、という欲求を持っているように思います。自分の状態に応じた対応をすることが、もっとも自分に負荷がかからないわけですね。 しかし、そのためには、非常に多くのエネルギーを必要とします。社会によって決められた流れに逆らい、自分のやり方を押し通そうとするためには、実に膨大なエネルギーを必要とするのです。いったい、そのエネルギーを、どのようにして確保したらよいのでしょうか。 おそらく、「自分」をありのままに見る、ということによって、そのエネルギーがもたらされるのではないか、と思います。「自分」がいま、何を望んでいるのか、何を求められているのか、それをしなければ一体、どのようなことになっていくのか、あるいは、誰をもっとも必要としているのか、どういう人が一番好きなのか、…。そういったことを、包み隠さず、すべてをあるがままに、公平に見ることにより、今、自分が置かれている状況というものを、信じられないほど、冷静に観察できるようになり、そして、それが、「本当の自分」の気持ちを貫くための、大きなエネルギーへと変換されていくように僕は思います。 もちろん、食事や運動など、規則正しい生活をすることも重要だと思いますが(笑) 長文失礼しました。何かのご参考になれば。

mwgam5
質問者

お礼

回答ありがとうございました。