No.6です。少し補足させてください。当時の「韓国人(朝鮮人)」にとって「よかったか悪かったか」を考えるのであれば、現在の日本人や韓国人がどのように考えているかどうかよりも、まず当時の朝鮮に住む人々(朝鮮半島出身者も内地から渡ってきた者も含めて)がどう思っていたか、が重要でしょう。「これだけのことをしてやったのだから感謝されて然るべきだ」と現在の視点で考える発想は、スタートの時点でベクトルが違ってしまっていると回答者は考えます。
回答者はひとつの結論を他に押し付ける考えはないので、併合後ちょうど20年経った昭和5年のある新聞記事を紹介します。(現代の表記にしています)
鮮内参政権獲得運動 李東両氏東上
朝鮮中枢院参議李東両氏は鮮内参政権問題に関し朝野各方面に対し運動をなしつつあったが、その建白書を携えて29日朝下関通過東上したが左のごとく語った。
鮮内の住民に参政権を付与すべしとの請願は既に大正10年の議会で衆議院に採択されて居ながらいまだ実現に至らず甚だ遺憾である。既にその第一階梯ともいうべき地方自治制も布かれて居る事だから是非とも年来の願望を達したい。我々の主張する参政権獲得は決して一部の人々が考えて居るように朝鮮の自治あるいは独立を目的としたものではなく、内地の延長として議会に朝鮮からも貴衆両院議員を送りたいのである。
内地在住の朝鮮人に参政権を与えて鮮内在住者に限り与えないのは非常な矛盾である。参政権を与えることによって二千万の朝鮮在住者は日本国民としての自覚と責務を感ずるようになり、鮮内における群生の諸問題は自ら解決すると思う。私は同志閔元植君のように反対者のためにやられるかも知れぬが死を賭して目的貫徹のために努めるつもりである。(「東京朝日新聞」昭和5年7月30日 引用終わり)
少し事実関係を補足すると、当時内地に住んで居れば朝鮮人も参政権があり、選挙に立候補することも投票することもできましたが、(実際に東京で衆議院議員になった人もいます)朝鮮や台湾、樺太には選挙区がないためそこに居住している人はすべて(内地から渡った日本人も含めて)投票できませんでした。「これはおかしい」と考え、「朝鮮からも議員を送ろう」という運動をしていた朝鮮人の記事です。この運動の同志だった閔元植という人は閔妃の甥にあたりますが、9年前に東京のホテルで朝鮮は独立をすべきだと考える朝鮮人の大学生に刺殺されています。
この運動は「反日」ではなく、日本の統治の枠の中で参政権を求める穏健なものでしたが、そのために朝鮮の独立を目指す活動家からは逆に、有害な「親日派」の運動だとして敵視されたもので、「親日」も命がけだったのです。なお朝鮮・台湾・樺太に選挙区を設置する法改正は日本の敗戦直前の昭和20年4月にようやく実現しましたが、敗戦によって実際に選挙が行われることはありませんでした。
現代の日本人の中には「朝鮮に居住していれば日本人も朝鮮人も投票できなかったのだから別に不公平な扱いではなく問題ない」と考える向きもあるかと思いますが、重要な点はそこではなく「朝鮮に居住している人はすべて自分たちの地域の代表を帝国議会に送ることができなかった」という点にあります。
回答者の親族には当時の朝鮮で子供時代を送った人が何人もいましたが、当時暗誦させられて、ことあるごとに斉唱したという「皇国臣民の誓詞」を老人になっても覚えていました。この誓詞には成人用と児童用があり、児童用は以下のとおりです。注意すべきことは、これは文部省が作って当時の日本のすべての学校で使われたのではなく、朝鮮総督府が作って朝鮮の学校だけで使われたということです。この誓詞を日本語で斉唱する我が子を見たとき、朝鮮人の父母や祖父母らはどのように感じたか、誇らしく思ったのか悲しく思ったのか、ここが重要だと回答者は考えます。
私共は、大日本帝国の臣民であります。
私共は、心を合わせて天皇陛下に忠義を尽します。
私共は、忍苦鍛錬して立派な強い国民となります。
お礼
>でも、北朝鮮は何も言ってこないが、、、。北朝鮮の方が、文化的だということか。 面白い点です。わたしもそれを思っております。おそらく北朝鮮はこのように思っているのだと思います。 日本統治は実際には良い面が多かったが、独立を失ったことでプライドが傷ついたので良かったとは言えない。韓国と歩調を合わせて賠償金をもらいたいが、韓国の行為は傍目から見てあまりにもさもしい乞食のように見えるので沈黙しているのでしょう。 ご回答ありがとうございました。