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住民の意志は正義か
- エボラ出血熱の感染者が世界的に増加している中、日本でも予防対策が進められています。しかし、近隣に研究所や病棟ができると反対する住民がいます。このような意志は公共のものに対する意見としてどう考えるべきでしょうか。
- 近年、住民の意志が公共のものに影響を与えるケースが増えています。例えば、廃棄物処理場が建設されるという噂だけで反対集会が行われたり、政治の誘導に利用されることもあります。これによって本来の目的や必要性が見失われてしまうこともあります。
- また、少子化対策の一環として幼稚園の子供の声に対しても問題視する住民がいます。しかし、このような意志が逆効果になる可能性もあることを考える必要があります。公共のものに対する意見は慎重に考えるべきであり、バランスが求められます。
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全くその通りで、御指摘の通りだと思います。 庶民、大衆なんてのは、所詮は自分さえ良ければ、という 人間なのです。 そういう人間の意思を反映するのが民主制というわけです。 それなのに、民意を反映すればするほど良い社会になる と考えている人のいかに多いことか。 庶民、大衆というのは我が儘なうえに、情報も持っていないし 政治、経済、法律などにも素人です。 そういう人間の意思を反映する政治が良くなるはずが ありません。 民主制には限界があり、民主制を純化すればするほど良くなる なんてのは神話だと知るべきです。
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- nn4n
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>自らを肯定して否定する。左翼系の人が陥る破滅論です。 意味が通じませんが? >なぜ、幼稚園に抗議して斧を振るった人は別の人なので しょうか。子供がうるさいのは当たり前です。しかし 世の中にはそれが気分が悪い人もいるのです。 墓地や産廃場も同じですね。しかしそれを言ってみても 仕方ないことです。 そうですか 斧を持って行く人は特殊です。 悟りを開いている様な現実味のない記述ですね。 > 私の住んでるアパートのすぐ近くにも中学校があって、 体育館から剣道部の掛け声がダイレクトに聞こえてきま す。しかし私はうるさいとは思いません。 私も大丈夫ですが世の中には夜勤で昼は休みたいという人もいるという想像力も必要では? 傍に畜舎でも? >それは自らを鍛えることに躊躇があっては高みを望めな いからです。競技とはそういうものだとわかっています から文句もありませんね。 ご高説はあまりにも難しくて私に理解しかねます。 凡人にもわかる記述を願います。
- nn4n
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具体的に細菌やウィルスの研究所の反対有りました? 廃棄物処理施設ができると地価が下がったりしますよ。 幼稚園はその反対して斧を振るったという人の問題が大きいのでは? 少子化とは関係ないでしょう。 それらは総論賛成と各論反対という分類にはいる事例であると思います。 meido20 さんの家の前が墓地とかになったら気持ちいいですか? 廃棄物処理場がお隣なら気持ちいいですか? だれでも自分の事なら反対しますよ。
お礼
自らを肯定して否定する。左翼系の人が陥る破滅論です。 なぜ、幼稚園に抗議して斧を振るった人は別の人なので しょうか。子供がうるさいのは当たり前です。しかし 世の中にはそれが気分が悪い人もいるのです。 墓地や産廃場も同じですね。しかしそれを言ってみても 仕方ないことです。 私の住んでるアパートのすぐ近くにも中学校があって、 体育館から剣道部の掛け声がダイレクトに聞こえてきま す。しかし私はうるさいとは思いません。 それは自らを鍛えることに躊躇があっては高みを望めな いからです。競技とはそういうものだとわかっています から文句もありませんね。
- uraoraura
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感染病の研究所や病棟あるいは廃棄物処理場などが近所にできるとなれば地域住民にとっては大きな問題でしょうね。 公益がどの程度まで優先されるべきか、結構難しいのではないですか?極限まで行けば全体主義に陥ります。 もっとも住宅街などで良く「終日通行禁止」でしたか?とにかく地域住民であり、かつ許可を得ている者だけしか通行してはならないという規制のかかった道路がありますが、ああいうのは地域住民のエゴでしょ。また「幼稚園の子供の声がうるさい」と怒るのもやはり度を過ぎていると思います。 ケースバイケースで判断が難しい場合もあるでしょうね。
お礼
日本も対岸の火事と思っていてはいけないと感じるような ことが起こっています。 今回はエボラ出血熱の感染の疑いは陰性だと報道されてい ますが、次はどうなるかは分かりません。 そうなったら、日本中にウイルスが蔓延する恐れもあります。 デング熱の場合も、まだ完全に押え切れていないのが実情で すから、安心はできませんね。
- HAL2(@HALTWO)
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NIMBY という言葉があります。 Not In My Back-yard (ウチの裏庭でなければね) という言葉を皮肉ったものなのですが、公共の正義と個人の権利との間に軋轢という、民主主義社会では当然生じる現象の言葉です。 公共 (或いは国家) と言った大義の前では正論でも、個人 (或いは地域) と言った小義の前では誤りであり、民主主義の先鋒を自認する米国では小義が勝ります。 例えば銃で人を殺すことは国どころか「人間、人類」という最大の大義の前ではやってはならないことですが、Halloween の仮装をした日本人の高校留学生が友人と見知らぬ家の扉を叩き、出てきた身重の奥さんを「Trick or Treat(^_^)/」と言って脅かしたところ、その奥さんが「キャーッ!」とあげた叫び声に Pistol を引っ掴んで駆け付けた旦那さんが逃げようとした 2 人に「Freeze! (動くな!)」と命令し、その言葉を知らずに不審な動きをしてしまった日本人の少年が撃ち殺されるという事件が起きたことがありましたが、米国での裁判でその旦那さんは「無罪」になっています。……米国では家の敷地内での絶対権は家人にあり、家人が正当防衛と判断した行為を裁判で覆せない限り、家人が侵入者を射殺することは罪になりません。 私が居た New York での駐車違反の罰金は市町村によって異なり、私が住んでいた町では $15 が一般的でしたが、集合住宅の敷地内では $200 なんてところもありました。……日本でも私設駐車場に無断で駐車している車に対して「3 万円を課料します」なんて札が立てられている処がありますが、これは道交法違反ではなく、私設駐車場利用違反ですので駐車場の持ち主が絶対権を持ちます。 米国は「民衆は国家のもの」ではなく「国家は民衆のもの」ですので、今立っているその地点での法は国法よりも州法、州法よりも市町村条例、市聴音条例よりも住民会条例、住民会条例よりも家主 (地主) の意向の方が常に上になります。 一方、社会主義 (或いは共産主義) などでは、例えば土地の個人所有ができず、土地はあくまでも国から借り受けるものになることから、OIympic 開催用地獲得のために移転先を示されることもなく強制立ち退きを命ぜられ、立ち退き期限までに家を空けられなかった者の言えば家財が残されていようといまいと重機で叩き壊されるということになります。……(仕事で知り合った知人が北京 Olympic の際に真にこの目に遭い、2 度目に逢った時に会社に寝泊まりしていたのに驚いたことがあります) 日本は資本主義国家ですが、米国ほど徹底した民主主義国家でもなければ中国や露西亜ほど徹底した社会主義 (或いは共産主義) 国家でもありませんので、公共と個人との関係に曖昧な部分が大きく、人各々で考え方が大きく異なる一方で、他人と異なること嫌う国民性から悪い事と理解していても「赤信号、皆で渡れば怖くない」みたいな風潮も持ち合わせている国です。 「利他」のためにどこまで「利己」を犠牲にするかは十人十色であり、絶対正義など有り得ません。 民主主義に於いては種としての人類全体にまで広げられる集団の保全を正義とするか、個としての単位にまで限定できる個人の安全を優先することを正義とするかはその考え方を採択する個人の自由であり、その自由を制限するものは法律と慣習です。 反対運動をすることは自由ですが、法に従わない者は罰せられるものですし、その法が誤りであるとしたければ法を改正すれば良いのが民主主義です。 しかし、法改正されておらず、罰せられる対象である行為であることを認識しているにもかかわらず、その行為を行うことは法律違反であり、如何に人権だの人道だのと主張しようともそこに正義などはありません。 その行為を行う権利が法的に保証されている限り、その行為を咎める権利は誰にもなく、法に反する行為は人権や人道などで許されるべくもなく、罰せられるのが法治国家の社会です。 但し「法律」は常に曖昧な部分を残していたり、その法に反する法をも揃えていたりするものですので、「政治」「行政」は文字通りの「法の支配」の下で行われるものとは限りません。 例えば先住者の安全に優先権が生じると考えられる「その地域に廃棄物処理場が建てられることに反対する運動」が認められる一方で「明らかに後から引っ越してきた人達」にまで某かの補償をを行う事例のように、「票田を失わないように」という目的で圧力をかける政治家や「問題化したくない」という目的でザルに等しい評定で補償や生活保護費をばらまく行政機関とか、庇護を受ける当事者以外の者にとっては常識外の補償や保護としか思えぬ行為を行っている行政機関が山のようにあるものでしょう。 この手の問題はそうした事例までも視野に入れて考察すべきです。 ……というような論理の筋立てをして考察しない限りは酔っ払いみたいに出口のない妄想に囚われますよ(^_^;)!
- wakaranyo2
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問題があってみんなが学び対応が生まれる立場により意見が異なり生死を分ける意見は殺し合いに変化します。コロニーを分ければいいのですが混ぜるから衝突が起きます。どちらかが絶える迄続きます。それが戦後の状態ですね。反対の為の反対をする訳わからない政治家が生まれるのもこれが原因です。
お礼
回答ありがとうございます。日本の近代化は明治になってから ですが、西欧の植民地主義に対応するため富国強兵を推し進め た結果日清日露の戦争をしました。近代国家とは福祉と兵役を 権利と義務として国民に課するものなのです。 つまり、納税は福祉を国民に分け与える代わりに、戦争で死ぬ ことを強制することになるのです。 第二次世界大戦の後、国連ができて日本はアメリカの核の傘で 生きながらえることができました。しかしこれからはどうなって いくのか分かりません。 おそらく中国の分割、独立に際して中東のイスラム経信者も交え て大戦争が起こるでしょう。 そうなったら日本は防衛線を日本海に張り巡らして戦わなくては なりません。 もう平和な国ではいられなくなりますね。
- dragon-man
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住民の意思は正義ではありません。すべてエゴです。自分の家の近くには幼稚園は要らない。ゴミ処理場も葬儀場も原発も要らない。自分ではそう言うものをすべて利用していながら、自分の家の近くには要らない。ただそれだけのことです。 そのために政治が必要になります。政治のもっとも重要な機能は、相反する利害の調整(エゴと公共の調整と言ったらいいか)です。それが出来る政府は良い政府で、出来ない政府は悪い政府です。民主党政権時代はとうとうそれが出来ませんでした。普天間にしろ、原発再稼働にしろ、子供手当にしろ、住民エゴを聞くだけで政治の体をなしていませんでした。危うく国が潰れかけました。
お礼
そうですね、住民エゴは留まるところをしりません。 東日本大震災で被災した東北のガレキを放射能に汚染 されているから入れるな。と反対した連中は宮城県の 大船渡がどこにあるのかさえ知りませんでした。 地図さえ読めない人間が何を言っているのか。と思 ってしまいますね。
- ebigawasampo
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これは古代の哲人プラトンも指摘していますが、それは民主政治というのがややもすると衆愚政治に陥ってしまうということの証左です。民衆のすべてが良く学び、よく考えているわけではありませんので、扇動する人間というのは不勉強な人々を騙し、利己本能を刺激して自分の意のままに操ろうとします。一方で民衆を守る責任ある立場の人間の意見というのは、扇動家のアジテーションに比べるとどうしても地味になってしまい、人口に膾炙しにくいきらいがあります。 マスコミは売れれば良い、政治家は票が取れれば良いというような安易な方向に向かいがちです。かといって、「数が多ければ正しいというわけではない」と言ってしまうと、テロリストの論理にもなってしまいます。皆が皆、よく勉強し、考えれば良いのでしょうが、そうもゆきません。結局は誤った方向へも一度は歩まざるを得ないかもしれません。それに気づいた時点で、遅滞なく方向変換させる、そういう回りくどい方法が民主主義を正しい政治に向かわせる正しい手段ではないでしょうか。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
こういう問題では国民全体の利益、公共の福祉に資する利益の大きさと、その地域住民の不利益とのつなひきになると思います。 どちらが正義か、ということ(無意味な場合が多い)よりも、少数意見は良く聴いて、もっともな場合はそちらを重視するということでしょう。お互いの利益不利益をはっきりと数値化できれば結論はあきらかですが、専門家の意見が割れる場合もあって、多くはたまむしいろの結論、お互いに妥協してお金で解決するということがよくなされます。 国民全体の意見の流れを見て(多数を味方につけて)政府は強権が行使できるような法律をつくったりしますが、それはやはりその行為が人権に関する憲法に違反していないことが前提で、地域住民の利己主義が突出している場合だけに限られるべきでしょう。
お礼
そうですね、もしエボラ出血熱が日本の、しかも東京で蔓延 したら反対住民も危険に晒されます。 そうなったら反対する人間はバッシングの対象になるでしょ う。そういう覚悟があるのでしょうか。
- kohichiro
- ベストアンサー率21% (306/1447)
こういう問題では国民全体の利益、公共の福祉に資する利益の大きさと、その地域住民の不利益とのつなひきになると思います。 どちらが正義か、ということ(無意味な場合が多い)よりも、少数意見は良く聴いて、もっともな場合はそちらを重視するということでしょう。お互いの利益不利益をはっきりと数値化できれば結論はあきらかですが、専門家の意見が割れる場合もあって、多くはたまむしいろの結論、お互いに妥協してお金で解決するということがよくなされます。 国民全体の意見の流れを見て(多数を味方につけて)政府は強権が行使できるような法律をつくったりしますが、それはやはりその行為が人権に関する憲法に違反していないことが前提で、地域住民の利己主義が突出している場合だけに限られるべきでしょう。
お礼
やはり国の方針と地域住民の意志との兼ね合いですね。 難しい問題ですが、政府の知恵が試される場合が多い と思いますね。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
住民の意志が正義か?正しいか?って問題は、もっと小さいレベルとして会社において「社員の意志が正義か正しいか?」という問題に似ています。 もっと小さいレベルでいえば、「子供の意志が正義か、それとも親の意志が正義か?」っていうのとも同じ。 例えば、不況になって会社存続のために、従業員を多数リストラしないと生き残れない、あるいは、そこまでいかないとしても、「すまんが、給料4割削減させてくれ」というお願いを会社がすることもあるでしょう。 従業員にとっては、それを受け入れることは難しいし、正義にはならないでしょう。でも、会社経営者としては、「1000人のリストラで、それ以外の3万人の雇用継続が可能になる、だから、このリストラは正義とまではいわないが、やらねばならない」ということですね。 結局は、その判断が、どれだけ広い、大きな視点で考えられるか?5年後、10年後あるいは、100年後のことまでも考えての判断であるのか?が正しいか、正義か?の判断レベルの差になるのだと思います。 ダムの例にしても、短期的には、特定政党の選挙などでの人気取り、票獲得に役立つ判断だったけど、経済的な視点、エネルギー供給の長期安定化供給という国民全体からの視点でみたら、「ダム反対」という意志は完全に間違いだったと判断できると思います。 ただし、その時点において、頭に血が昇っていたりとか、それぞれ個人の思惑が絡めば、正しい判断をするのが難しいことも多いですね。 「原発再稼働反対!」という運動も、他の不純な動機、左翼的というか、中国や韓国の思惑が反映していると、私は思っています。 大規模太陽光発電の推進事業も、本当にエネルギー供給の安定化、とか、地球環境を考えたものではなく、金儲け主義第一であったことが明らかになりつつあると思います。 近所の幼稚園の騒音問題も似たようなところがあると思っています。 江戸末期の吉田松陰先生の黒船密航の試みはご禁制を犯す違法行為であり、その後に断首の刑に処せられたけど、今の価値観・倫理観からすれば、吉田松陰先生の行動は、全く問題がない正しいことだったという判断になります。 ということで、多数決をとれば、1対100万となって、「1の意見が完全に間違いだ!100万の意見が正しい!!」となっても、1が正しいことはよくある話です。(STAP細胞についての批判も同じ) 住人多数が「憲法9条を守る!。だから戦争放棄し攻撃力となる軍事力は持たない(つまりは、中国の属国になる、奴隷になりたいのだ)」という意見を選んでも、それが長い歴史を持つ日本の国としての正義ではないのと同じです。
お礼
そうですね、江戸時代末期に新政府の必要性を唱えていた 神仏がどれほどいたか。という議論にも発展します。 少数が間違いで、多数が正しいのなら明治維新はできません でした。坂本竜馬の書いたシナリオは当時の先進的な 僅か十数人の意見を元にしたものでしたね。
お礼
そうですが、あまり政府の言う事を信じても利は ありません。特に感染症の研究所などは一番に感染 するのは研究者ですから、防護対策は完璧になる はずです。それを地域住民にまで感染が広がると 考えるのも無理がありますね。 どっちも知識の無さと説明不足の綱引きのようで、途 中で綱が切れているのも気が付かない体を為している ようですね。