※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:悲しい反応(御嶽山噴火被害))
悲しい反応(御嶽山噴火被害)
噴火の被災者はまだ増える可能性があるということで、捜索救助を祈るばかりですが、ニュースが出るたびに、「自己責任だ」とか、登った自分が悪いんだから同情できないとか言う人がいて、何だか悲しくなります。
別にニュースで伝えられてるのは、「こんな可哀そうな人たちの生活を支援しましょう」なんてことではなく、ただただ自然の恐ろしさ、非情さであり、何とか、被災者には遺体となっても、近親者に戻してあげて欲しいって気持ちだけであって、誰が悪いという論調でもないでしょうに。これは、社会参画意識とメディアリテラシーが足りないんじゃないか、と危惧します。今後、活火山への登山規制をどうするか、研究予知体制をどうするかは、山国である日本にとって、重要な課題になるかも知れません。
だいたい、同情できないとか言う人は、基本的に山登りが好きなタイプでなく、近くにもいない、どうでもいいと思っている人だと思いますが、では山登りが好きな人が社会に一定数いて、社会を共生し、税金等の負担を分かち合って生きているという意識がないんでしょうか。自分の興味ないことに、無関心なのはまだ仕方がないとして、ただ感情的に敵意を向けるようなことは、あってはならないと思うのです。
個人的なつぶやきすら情報拡散してしまう時代だとしても、ある程度の大人が、子供じみたコメントしていることが悲しいと思います。皆さん、どう思いますか。
お礼
今回、いろいろな方の回答を見て、改めて思いを言葉にする難しさを感じました。私の言っていることも、第三者的に見れば「感情論の1つ」に括られてしまうですね。悲しいと言ってるんですから。 私が本当に言いたかったことは、自責か他責か善悪・白黒つけようということではなくて、他人が運悪く、お亡くなりになったら、まず「お悔み」するような社会がいいのではないか、ということでした。何で、他人の責任だと一言も言っていない遺族の方々も含まれる相手に対して、第一声が「自己責任ですよ」「私は同情しませんよ」などと強調して言う必要があるのでしょうか。 限られたコミュニティでやる分には構いませんが、少し社会としての許容度なり、他者への思いやりに欠けた書き込みを多く目にし、それが「悲しい」と思いました。 ただ、そういった意見表明が一定数の根強いものであることも感じ、それが日本のいいところ、自由に意見表面する場があってガス抜きにもなっている、多様性を少しだけ確保している、ということなんだろうなと思いました。 ご回答、ありがとうございました。