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誠実な人間になるには

私は最近、キリスト教における7つの大罪を犯したような気がします。 傲慢…他人の幸せなんて考えず、自分の損得ばかり考えていた 強欲…努力せず幸せが欲しいと思ってしまう 暴食…常に空腹である 色欲…見栄が張りたくて恋人欲しさに好きでもない異性に媚を売った 嫉妬…仲良しの人が他の人と仲良くしないで欲しいと思ってしまう 怠惰…やるべきことをせずにだらだらと寝てしまう 憤怒…気に入らないことがあるとすぐにカッとなる 自分がひどい人間で懺悔をしたいです。 誠実な人間になるにはどうすればいいでしょうか?

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  • Glory_777
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回答No.9

それぞれが罪になる理由を考えましょう。 闇雲に罪を考え、罰を恐れることは、思考の怠惰となります。 7つの大罪と仏教の三毒(煩悩)は同じであり、説明の仕方が違うだけで、 非常に合理的です。 以下はかってな解釈ですので、宗教思想ではありません。 こんな面白いことを思っている人も居るくらいに考えてご容赦ください。 コレを踏まえて、最後に「誠実とは何か?」延べますね。 罪の意識というのが人にはありますよね。 これが無ければ、罪と言う概念すらなく、大罪という話も理解されません。 唱えている人は、人が善性であると確信しているわけです。 自然物や動物に話しても仕方ないと誰もが知っています。 仏教の善では、自ら気づいて向上しようとする人を相手にしており、 キリスト教では、話しても駄目な人を隔離して出家させ、 子供を育てる親を教育することと、実践してみてわかる体感効果を大事にして、 考えることより行動させることを方針にしているようです。 基本的なメカニズムは、今の進んだ社会学や精神医学などで解明されていること そのものです。 ですので確実に効果があり、これを証明して普及してきたわけです。 キリスト教の教えを理解するためには、仏教を解説文として使い、 前者を実践主義、後者を理論主義としてあわせて理解すると、 誤解がなくなると思います。 三毒(煩悩の大別)で当てはめて考えると、確かに共通します。 ・怒りの心   憤怒、嫉妬 ・貪る心   暴食、色欲、強欲 ・愚かな心   傲慢、怠惰 となるでしょう。 宗教が目的としているのは、今流行のメンタルヘルス関係の治療と、 それを生み出す家庭や社会の不完全性を原因として、親たちを諭すことです。 つまり、発達障害とか、パーソナリティ障害の防止ですね。 どの宗教も出家と言うシステムを持っていまして、 重症に達した人を保護し、隔離します。 と言うのは、 そうした人は不条理を生み出すからです。 周りに居る人の誰に対しても、無差別に理由無くストレスを与えようとします。 この不条理に出会うと、 健康な人でも怒りの発作にとらわれ、思考が出来なくなり、 最後は同じような行動をとり始めるのです。 これでは予防としての説法の意味が無いです。 健康を取り戻すために、どこかで癒すのが良いのでしょう。 たとえば、 神や悪魔の存在を理由に、人を傷つけるようになれば重症です。 「神さえ信じていれば、何をしても良いはず」 と言う論法を使われたら、宗教運営側も困ります。 できるだけ早く、誰かを傷つける前に隔離する必要があります。 「あなたは神を信じますか?」 「いてもいなくてもいいです。  私の努力できる範囲で自分の人生に邁進するのが楽しいからです。」 こう答える人は、健全ではないでしょうか。 すなわちこの人は、神は自分の中にいると答えています。 キリスト教では、人も神であり、その途上であるとしています。 仏教は、仏はどこにでもあるとしています。 (これは難しいので良くわかりませんがw) つまり、思い悩んでいろんなことを考え、 そうしたものから共通項を見つけ、 それらを使って自分のストレスを減らすことが出来れば、 その実力をもって免許皆伝である人を神と呼ぶのでしょう。 天上天下唯我独尊という言葉がありますが、 これはお釈迦様が誕生したときに、自ら発した言葉だそうです。 例え話だと思いますが、 「私は私の使命に不満なく、  上下を考えて落ち込んだり、羨んだりすることなく、  今ある人生をまっとうし、  例え孤独と感じても、  それしか自分には出来ることが無いのだから、  それは他の全てと同じくらい尊いと思います」 という意味になるそうです。 人も晩年になると、この思想に気がつくのですが、 お釈迦様は生まれたときからそういう答えを知っていたらしい。 という話だそうです。 宮沢賢治の雨にも負けずと言う詩がありますが、 その根底の思想ですね。 この思想の発明者は、お釈迦様とされており、 2000年くらい前に確立しているわけです。 しかし、自分だけを敬う傲慢な言葉として解釈され、 そう勘違いしている人が沢山います。 煩悩の三毒も七つの大罪も、 実は違った意味として解釈され、 本当の理由を知らずに、間違った罪滅ぼしをしているのかもしれませんよね? 角度を変えると、現代のメンタルヘルスを何とかしようとしている、 お医者様と同じだということです。 地獄などを表現する例えがありますが、 これって、生きているうちに味わっている今現在の苦しさを表現していて、 将来に味わうものではないと、気づきますよね? 比喩としての話です。 大人が子供に対して、 「悪い子は鬼に食べられるぞ」と脅しているだけの話でしょう。 今苦しいという事に気がつきましょう。 という話です。 手塚治の「ブッダ」と言う作品がありますが、 これはそこを良くとられて説明していると思います。 中期、後期の仏教はお伽噺が多いですが、 ここに出てくる天とは、リアルにあるセレブ階層をさしており、 教えを説かれる当時の貴族たちは、 自らへの戒めとして、この比喩を受け取っていたのだと思います。 私たちが前にいたら、私たち向けの例えをつかったでしょう。 さて、一つのことが沢山の言葉で比喩されているのがわかります。 しかし根底にあるのは、 「自分の欲求は自分で満たすしかなく、  工夫すれば喜びを感じる手段は沢山ある。  けっして誰かが与えるべきものとか、  それを信じて苦情や八つ当たりを述べたり、  害しようとしたりしないこと。  またこれらを悶々と考えている間にも、寿命は尽きていく。  いまこの瞬間も、手近なものを使えば、  それなりの喜びを満喫できる。  自らの善良さに悩む理由は、  善良であることで誰かからご褒美を貰おうとする気持ちや、  悪徳を恐れる理由は、  悪徳ゆえに誰かから罰せられるのを恐れる気持ちから生じている。  これは、自らの幸せは、誰から与えられるという、  子供頃に親に育てられてきた習慣が抜けないからだろう。  自らできることしか、自らを満たせないとしたとき、  これを切ないと感じるのは当然だけど、  これで人に害を与えたり、害を与えようとする心を抑えるので苦しめば、  小さくとも喜びであるものを味わうチャンスが無くなってしまう。  より多く損をするからやめなさい。  わたしは楽しむことを禁じていない。  必要以上のものを得るためには、その分の時間も労力がかかる。  余分なものは使わないわけだから、得たものを楽しむ時間が減っているよ。  思い悩むことがあっても、他の人も同じ事で悩んでいると悟れば、  解決は早いかもしれない。  これをサボってしまうと、いずれ苦しさに負けて、怒り続けることになるよ。  だから、自分の損得を考えることはとても大事だよ。  例えば心の平安が本当の得だと思えば、  これを得るために誰かの笑顔が必要だとわかるだろう。  心の得を得るためには、  生きていくための糧は得ないといけないのは知っているだろう。  これをサボれば、いずれは巡り巡って誰かの面倒になるだろう。  自分が得をするとためには、誰かが損をしないと適わず、  人が得をするためには、  自分が損をしないといけないと思い違いをしていないだろうか?  誰もが自分の力だけで、自分に得させて、他の人に損をさせず、  嬉しそうにしていれば、全員が幸せになると言うことじゃないかな。  自分の面倒を見てもらうことをあきらめきれず、  善良と言うものを売り物にしてはいけない。  何をしても自分の面倒は他人が見てくれないと諦めたとき、  それでも自分がやりたことが本当に自分にとって必要なことだとおもうよ。  これが誠実と言う姿勢ではないだろうか」 と要約します。 出来ることしか出来ない。 こうした当たり前のことに対して不満を人にぶつけないこと。 それで満ち足りる工夫をすること。 誰もがそうすると、確かに大人っぽい社会になります。 親が社会に自分をほおりだすんです。 不安ですよね。 このとき、親の代わりを神に求めると、 「それは無いから」 と神がいうわけです。 自分がクリアしなければいけないテンプレートを求めず、 自分を罰しても、誰も得をしないことに気がつかないといけません。 また、無理をして他人に利することをしても、 それがために、お返しを求める気持ちは自然に生じます。 あまっているものを捨てるのが勿体無いときに、 人に使ってもらうのが自然です。 あまるほど得られるように努力をすれば、それも可能でしょう。 自分の限界まで独力で努力し、限界を感じ、死ぬほどなけば、 分をわきまえる心が生まれ、 人の成果をうらやましく思わないでしょう。 そうしたとき、やっと日常が楽しいことで満ちていると知ります。 知らず知らずのうちに迷惑をかけている人が居るかもしれません。 神に謝るくらいなら、相手の人に謝り、障害を取り除くのが大事です。 いまそこにあるものといまそこにある人以外には何も出来ません。 空想で将来に望みを託さないことです。 以上、ご参考になれば。

prtkkk6hm7jn
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 自分は少し冷静じゃなかった気がしました。 仏教とキリスト教とは違うようで似たようなことを言っていたのですね。 私は熱心な宗教観念を持っているわけではないのですが、自分でしか自分に幸せを与えられない…相手を傷つけないで少しの工夫で出来ることを精一杯することが大切なんですね。 これから人生道を外さないように苦しいかもしれないけれど努力をしていきたいです。

その他の回答 (8)

  • sunsowl
  • ベストアンサー率22% (1025/4491)
回答No.8

キリスト教徒の方でしたら、今まで犯した間違いについては、懺悔をすればいいんじゃないでしょうか。 今後、欲を抑えられずに間違いを犯すかもしれないという悩みは、神父さんに相談してはいかがでしょう。 とりあえず教会に行かれては。

  • pink580
  • ベストアンサー率24% (56/225)
回答No.7

あなたがお持ちになっている宗教はキリスト教なのですか?教会で懺悔されてはどうでしょうか?また、大罪を犯すのが人間の弱さなのですよね。あなたが示された大罪を犯さない強い人間の方が少いと思います。誠実な人間になるには日頃の感謝と思いやりを持ってお過ごしされてはいかがでしょうか?私はそう思います。頑張って下さい!

  • taka-aki
  • ベストアンサー率12% (748/6126)
回答No.6

病気になって健康のありがたさを知る。 山で遭難して飢えて食べ物のありがたみを知る。 人の葬式に出て命のはかなさを知る。 禅宗に入って修行して視野を広げる。

  • kikkin5
  • ベストアンサー率14% (1/7)
回答No.5

「キリスト教における7つの大罪」・・・・ですか・・・・ イエスの時代には それが大罪だったとしても 今は もしかすれば大罪で無いかも知れないし 7つだけで無く もっと 大罪としての扱いの数が増えてるかも知れない・・・・ってのは考えないのかな? 聖書だけが真理では無いのです

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

1,悪口を言わない。 2,約束は必ず守る。 この二つだけ守れば、あなたは誠実な 人です。

回答No.3

俺はジジイだ。誠実に生きてきたつもり・・何も考えずに。でも周りを見渡すと誠実でないと思われる人が勝ち組って感じがしている。誠実ってなんなんだ?。今もって分からん。人は欲望で動いている・・欲望を満たすために生きている・・結局何を考えても、行動しても地球上から人が消えるまで変わらない。だから誠実でなくてもいい・・取り敢えず生きてみよう・・。

回答No.2

これらを克服てきている人が誠実とは限らないと思います。 そういう人は、単に、自分の欲をコントロールしながら、 上手に欲を満たしているだけと思いますよ。 これらができていないからと言って、不誠実ではないと思います。 単に、自分の欲をコントロールできていない 気が散漫だったり、不器用だったりするからだと感じますよ。 私はキリスト教は分かりませんが、 自分自身は7つの項目、全て当てはまる感じ、 この質問を読み、今、絶望を感じました。 私の場合は、ほとんどが、改められそうもありません…。 でも、私は自分自身が誠実でないとは感じません。 むしろ、誠実な人間だと感じています。 それは、自分の欠点や至らないところに真摯に向かう姿勢、 それが、とても誠実な人だと思うからです。 誠実さとは、犯罪やモラルを守るということとは関係ないと思います。 それは、ルールを守っているだけです。 自分の身の保身のために、守っているとしたら、保身です。 誠実さではありません。 そうではなくて、自分自身に一生懸命向かい、 欠点を改めようとする姿勢が。 このサイトで質問し、 一生懸命悩んでいる姿が、すでに、誠実だと思います。 欠点を認め、受け止める、自分を知ることでOKだと思います。 7つの項目をすべてクリアするように、治すのは、 とても、とても難しいと感じます。 だって私がそうだから。 私も同じように悩んでいますが、難しいから。 しいて言えば、こういう場合、 「自分の為に治す」ことは難しかったりするので、 「愛する人の為に治す」というのがあると、あるいは可能かもしれません。

  • pct10968
  • ベストアンサー率21% (641/2971)
回答No.1

じじいです。 >誠実な人間になるにはどうすればいいでしょうか? まず、今あなたが思っている自分のひどい人間だなと思っている所を改める事でしょうね。