Nookickyさんこんにちは。この問題は人の数だけ考え方があるかもしれませんが、一つの例として、「自と他の区別が無くなること」というのはあります。
自分の身に降りかかる不幸はとにかく避けたいと思うのが普通です。しかし、その反面、人は他人の不幸に対しては鈍感なものです。これが「自己愛」です。
「愛する事」とは、この「自己愛」で言うところの「自己」が、他人にまで及ぶ、つまり「自と他の区別が無くなる」感覚という見方ができます。
例えば(ちょっと突飛な話ですが)空から鉄骨が落ちてきたら普通は避けます。しかし、それが他人だったら普通は身をていしてまでそれを救おうとはしないと思います。でも、「愛している」場合、それが他人であってもその人に対しての感覚はもはや「自己と同じ」ですから、思わずそれを助けてしまうのです。
私は独身で子供がいないのでまだわかりませんが、結婚して子供が出来てからはじめて「愛している」という感覚を理解した、という人が多いのも、やはり「我が子」は「他人ではない」からだと言えるかもしれません。
反面、この「愛」は、自己愛の延長ですので、「エゴに変化する」ことも有り得ます。「教育ママ」などというものはその最たるものかもしれません。つまり、我が子を「自分の分身」のように勘違いし、自分の能力を上回る望みを子供に押し付けるのです。
自と他の区別がちゃんとついていれば、こんなことにはならないで、ちゃんと子供の個性を考えるはずですが、子供を溺愛している親に限ってそれが出来なかったりする、というのも、良くある話ではないでしょうか。
私は「愛」と「エゴ」は表裏一体だと思うので、人を愛した時にはエゴに陥らないように、厳しく集中するように気をつけます(例えば相手が自分の望み通りにしてくれないことに腹を立てたりするのはエゴです)。
そんなわけで、「自己愛」についてまず考えてみて、それが他人に対して感じられるようになったら「愛している」と言えるのではないでしょうか。
最後に、上記を読んで「愛すること」がいやになったら困るので付け加えますと、その感覚は理屈抜きで幸せなものであることは間違いありません。
以上、一つの考え方として参考にして頂けたら幸いです。