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日本人の人間観察好きについて
- 日本人が人間観察を好む理由は何でしょうか?
- 日本人の人間観察好きに違和感を覚える経験をした方もいるようです。
- 海外生活を終えて帰国した人々が、日本人の人間観察好きに驚きを感じている場面もみられます。
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 私は欧州に永住するものです。 ほんとですね。日本人ってあれこれつっこんで個人的なことを知りたがりますよね。 血液型で性格決めるなんて、私はアホじゃないの?と思います。 どこ行っていようが、何を買ってこようが、個人的なことです。 話したければこちらから話します。 そんなこと、こちらではないです。 身内でも友達でも、十何年ぶりに会って『太ったね~』『老けたね~』第一声がこれです。 なんですか?失礼極まりないですよね? こんなコトバ、こちらではあり得ません。 上記は日本人の嫌いな点ですが、 私はこちらに越して以来、去年初めて里帰りをしました。 こちらの人の不親切、謝罪無し、約束すっぽかしに慣れていたため、 里帰りした際に、日本人の親切さ優しさにいたく感動してしまいました。 お客様は神様扱いで、どこに行っても気分がよかったです。 海外暮らしが長く、そういう個人を尊重した付き合いが長かったあなたには 日本人がウルサく、面倒くさく感じて無理ないと思います。 帰りたてならなおさら。 それもそのうち慣れると思いますが。 もともとあなたは性格的に海外向きだったのかも知れませんよ。 でも、私はそのウルサイ日本でもいい、帰りたいんです。 何でもいいかげん、休むことしか頭にないこの国にウンザリしています。
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- hirotan1879
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おっしゃる通りですね。 日本が息苦しくて欧州(連合王国とロシアの隣の北欧)で二国を往復しながら仕事をしております。 日本は農耕生活が基本で島国ですから狭い地域社会でお互い牽制と競争を繰り返すのがデフオです。 と ころで 欧州の島国(連合王国)も嫌らしいのは一緒で、更に階級社会;差別社会で疲れる社会だと思いますがいかがですか? 高慢さと性格の悪さははるかに上です。上流階級の差別 排斥 嫌がらせ、 下からの逆差別 抵抗は日本での在日の方との問題以上だと思います。 一見上品な紳士に見えていた方でも、本格的に商売での利害での部分になりますと激しさ徹底さは日本の比ではないと思います。 旧日本の大陸植民地が軒並み赤字だったことを考えても 連合王国の差別と収奪ははるかに激しく歴史を重ねてきたのだなと実感することが多いです。 両方の文化を比較できる立場にあるのは有効で自分の立ち位置を見極めることができて良かったと思っています。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。 わたしはその欧州連合王国にしか住んだことがないのですが、確かに階級社会と言うものを感じました。が、基本的には個人主義の社会なので、自分の意見を持ちながらも他者の意見は尊重するというスタイルは、自分にとっては心地よかったです。ただ、社会的弱者に対して不平等はいけないと言って言葉では格好いいこと言う人が行動は全然伴ってないのがいたな、という気はします。そう言えば日本人は陰で色々文句言いながらも、行動としては本人の前では親切にしてくれる人が多いかも…。 確かに両方の文化で良い面悪い面があることを知って比較できるのは有意義ですね。
- tomban
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日本人は、言ってみれば「大きなムラ社会」が好きなのです。 正確に言うと好きなのではなくて「脱し切れない」という方が正解かもしれません。 不思議なものですね。 外国で暮らされていたならば、外国の方の日本への評価が「必ずしも悪いものではない」ものであるということも、また「尊敬が出来るところがある」ことも、肌身で感じていらっしゃると思います。 しかし、その当の日本人は、自分たちの住んでいる場所、やっている仕事、歴史や文化というものについて「迷い続けている」のです。 一貫性がないように見えるのはそのためです。 そして何故、迷い続けているか?ということ、これは自業自得で 「責任と自由」という、両立した2つの車で成り立っているはずの「国家」というものの「あり方」というのを「放棄」しているからです。 自由というものは、個人の責任によって行使されるべきものです。 ですから、何らかの「責務」というものが、一人ひとりについてまわるのは必然と言えます。 いわば「自由」というものは「責任」という「尻尾」付きでのフリーフライトであり、その尻尾の取り扱いや捌き方にどれだけ手練であるか?ということで、その飛行の軽快さも大きく左右されるわけです。 自由というものを「何をやっても構わない」という捉え方でいるからこそ、日本人には「ムラ」が必要であり、首長が必要なのです。 だからどんなにいい加減な政治家が出て、いい加減な政をしようとも、平気な顔が出来るんですよ。 「あんなのは俺が選んだ奴じゃないや」とね。 …責任放棄が出来るということは、自分自身の根っこに「責任感」というものが希薄だからです。 しかしそれでも、責任というものは尻尾のようについてまわるものです。 ただ無視しているだけなのですから、違和感はどうしても残ります。 かといって、自分でさばくのは面倒臭い…となる。 だからこうするのですよ…「そうだ、他人のせいにすりゃいいんだ」とね。 自分の行動規範を、他人の行動規範にすり替えてしまうんです。 他人がOKなら、自分もOK…一見ありえない方法論ですが「ムラ社会」ならばそれは可能なのです。 「自浄効果無きムラ社会」なら、責任もへったくれもない。 枠の中に留まることが、いわば「最終結論」ですから、枠から飛び出さないための行動は、全て正当化されるのです。 これが日本人独自の蓋然性…「1億人ムラ社会」ですよ。 小さな枠の中に、また小さな枠をどんどん構成する…そしてその中で自分と他人とのポジショニングに大きな違いがないかを「再確認し続ける」のです。 確認することで安心しているのです。 自分の行動は間違ってない、罪ではない、責任も果たしてる(だろう)…というふうに。 最近になって、日本人には少し「変化」が出て来ました。 良い変化ではなく、むしろ逆です。 生来の「ムラ社会」の本質をそのままにしながら「個性発達」を旗印にした学校教育プログラムが組まれ、実行されてきました。 結果的に、そのプログラムから子供たちが学んだのは「他人とは違う自分」という、ただそれだけを重要視するという「個性化」です。 この誤った概念が浸透して「自分は他人とは違って「いなくてはならない」」という風潮が強くなりました。 これがプライドを硬化させ、自身と他人というものを「比較・敵対化」させ、融和や許し、優しさといったものを率直に受け入れることを出来なくさせました。 これは明らかな「愚策」です。 今までならばまだ「自他同一」ということで安心できたから逃げ場もありました。 しかし、ムラというものから逸脱できないままの状態で、今度は「他人と違う自分」というものを「求められる」という苦痛をも背負わされたわけです。 言ってみれば「個性とは何だ?という宿題」をやらされて、それに点数を付けられるということです。 …味方はいません。 いわば周りは皆敵ばかりです。 何を信じていいのかもわからなくなっているでしょうね。 …そういった中で「彼ら」は生きてるわけです。 ある意味必死だと思います。 可哀想なことですが…それを結果的に課してきたのも、子供たちの親やその親の世代です。 日本は危機状態ですよ。 どこの国も色々と問題はありますけど、日本の危機は大きなものがあると思います。 それでも…危機感がないのですからね…なんとも…。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。
- 雪中庵(@psytex)
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日本人は、ジャポニカ米稲作農耕文化と島国文化という、 集団主義的な二大文化要因が重なっており、世界でも稀な地域 であり、それが近代化の集約的労働による大量生産に向いていて、 急激な近代化が可能になったのです。 それは、英語では「I」だけの一人称が、「私、僕、俺、小生・・・」 など、関係性によって異なる単語が無数にあるように、互いの ポジショニングを常に確認している事にも表れています(それに より言葉遣いも変わる>尊敬語、丁寧語、謙譲語etc.)。 以心伝心、腹芸、沈黙は金など、日本のねっとりとした陰湿な 人間関係を表す表現は山ほどあります。 僕ものべ8年間海外で働いて、ゴリゴリ押し合う大陸式個人主義 に適応して日本に帰って来た時、ぬるま湯につかった時のように 緊張感が弛む感じを味わいました。 (そもそも下記のようにヒゲをはやす事さえ、他人と異なるので 否定される社会です)
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。
お礼
遅くなりましたがご回答ありがとうございました。