• ベストアンサー

ジダンの頭突き

06年W杯のジダンの頭突き。あれはマツェラッティを褒めるべきでしょうか… 個人的にマツェラッティの暴言は、スポーツマンシップに反しているし、人としてどうかと思います。 あこでヘッドしたジダンは選手としても、人としても正しかったし、 美化するべきじゃないと思うのですが。 あの事件をどう考えて、どう捉えるべきですか。 (^_^;)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • best1968
  • ベストアンサー率53% (88/166)
回答No.2

こんばんは。 もう6年になるのですね。個人的な感想です。 サッカーって人間の喜怒哀楽を最も映し出すスポーツだなあってつくづく思います。選手もサポーターもサッカー嫌いな人も。 サッカーが世界で一番愛されるのはその部分こそ本質かも知れません。そこには善意と悪意、賞賛と嫉妬、そして悪魔と天使がいる・・・。戦争や紛争で同じ人間を殺しあうのも、自ら命を絶とうとするのも人間だけです。そして同時に智慧や対話で試練を乗り越えて協力し合ったり、未来を切り開いたり、そして何より間違いや過ちや失敗を良い方向へもっていけるのも人間だけです。 まさにすべての人間が内面で自分の中にいる「悪魔」と戦っている。 サッカーで、その悪魔に負けてしまうことが度々あります。選手もファンも、そして審判や国も。 長年仲が悪かった国どうしが、ある試合(70年メキシコワールドカップ中南米予選)の試合をきっかけに戦争になる。数万の人が亡くなったそうですから明らかな戦争です。 試合に負けたというだけで多くの人が心臓発作や自殺で亡くなられる(50年ブラジルワールドカップ) 試合で暴動がおき多くの方が亡くなり、客席からも発砲があったり。(85年チャンピオズカップ=現チャンピオンズリーグ)決勝) 個人レベルでも、ワールドカップ見たさに仕事を止めたり、何十年もかかって返せるような借金をして東京のクラブワールドカップに応援に駆けつけるような人も南米にはいます。恋人や家族からも相手にされなくなったり・・日本を含む世界中で見られます。 「魔」との戦いにFIFAは先頭に立ち選手も敏感に、そして勇敢と魔と戦います。ファンも。 昔は選手交代も、イエローやレッドのカードもありませんでした。その時代のワールドカップの試合の映像を見ましたが、暴力に汚された大会が多かったです。ペレも犠牲になりました。まるでボクシングの試合のようなゲームもありました。 まずルール改正でファールに対する対処をします。クラブは「悪質な観戦者」を永久入場禁止にしたりします。スタジアムの安全を図り近代化したり余り大きなスタジアムは作らない流れにもなりまし(多くても8万~10万人収容ぐらいの)。旧ウェンブリーに40万人近くサポーターが駆けつけたり、マラカナンに20万人以上のファンを詰め込んだりすることはありえなくなりました。 ルール以外では、サッカーが世界的なスポーツとなり、世界中の人がリアルタイムでつながる時代になると、試合前に国旗より前に真っ先に「ファアープレーフラッグ」が出てきたり、子供たちと共に手をつないで入場したり、大きな大会では試合前に両キャプテンからメッセージの朗読が必ずあります。アンチレイシズム=人種差別反対やリスペクト(互いに尊敬しあおう)などです。 負傷者が出たら試合をわざと止めて、再開時は相手にボールをわざと渡します。それを見て観客は大きな拍手を送ります。昔なら考えられないことです。 これからもそのサッカーを破壊する「魔」とすべてのサッカーファミリーが協力してが戦うことになるでしょう。たとえ衝動的に魔に負けても、それを良い方向へつなげる原動力にすることが人間にはできます。 数年後、ジダンとマテラッティーが笑顔で握手している写真が忘れられません。今では「人間」としても二人ともリスペクトしています。二人はきっと不思議な親友にこれからもなっていくと思いますよ。 長文で申し訳ありませんでした。

その他の回答 (2)

回答No.3

あの場面では即頭突き攻撃ではなく襟首つかんで脅す位にしておけばジダンは「よくぞ我慢した」と評価され人種差別問題で、マツェラッティは悪者になって、めでたしめでたしで終わっていたと思います。

回答No.1

どんな暴言を受けようが、暴力での報復は断じて肯定できません ジダンって人がアホだったと捉えるべきです