開封確認の是非
開封確認の是非
開封確認については、送信側の自然な欲求として開封確認を得たいということがある一方、ネット上現れる受信側の意見としては「不快」という言葉を頻繁に見かけます。全体的には読んでいると開封確認に対してとても神経質な印象を受けます。まるでニュータイプのような鋭敏な感覚の持ち主の方が多いのでしょうか。ちなみに、私は開封確認してもらう設定にしてますし、また自分も開封確認の通知をしています。
ネット上の「不快」などの発言を見ていると、開封確認が行おうとしていることに対して、かなりバランスを欠いた感情をお持ちの方が多いように感じてしまいます。
また、受信する方の環境や意思による開封確認の限界という観点から開封確認が事実上無意味であるかのようなことが言われていたり、開封確認の機能がセキュリティー上問題があるかのようなことが言われているものが多くありますが、前者については、まさに、受信する側の設定の責任の問題でしかなく送信する側において開封確認を使用することが非難されるようないわれはないように思われますし、後者については、はたしてそうした発言をされている方自身が技術的な確信があってのことなのかについて疑問があります。特に後者については、開封確認の機能そのものというよりも、E-mailを受信するということ自体のセキュリティーについて手が抜かれているからこそ、開封確認の機能が脆弱性の踏み台にされかねないという不安が煽られることになるのであり、たとえば、メーリングリストで利用すると危険だとか、スパムが開封確認をつけていてなおかつ自動で開封確認をする設定になっていると危険だというような場合、それはもう開封確認の問題ではなくて、受信する側のメーラーとセキュリティー一般に対する無知ということなのではないかと思うのですが、そうした自己批判というのはお持ちにならないのでしょうか。
「開封したかどうかを知られるのが不快」といったようなことはあたかも「書留郵便でサインさせられるのが不快」というような話であり、たぶん後者の場合には現実には不快という人は常識のある方であれば言わないと思います。ところが、より負担の少ないメールについてはたかだか開封確認がなされることが「強いられているようで不快」といった趣旨のことが多く言われています。これは私としてはちょっと自然に発生する感覚ではないと思っています。そうおっしゃっている人たちが、もともと持ってた感覚なのか疑わしいと思っています。広告ビジネスを支える、書くためのコンテンツ記事として書かれたものに過ぎないものを信頼性の高い情報として鵜呑みにしつつ、普通に使えば便利な機能に難癖をつけることが少しネット上で自分を賢くふるまわせるので「不快」になる自分に酔っている人たちは少なくないのではないか?というように考えています。初心者的なユーザーが持つ当たり前の感覚を上からひねりつぶすとき、中級以上のユーザーは優越感を感じるということがあるように見受けられます。
本当に、技術的な根拠があっての批判なのでしょうか?どれくらいそれについて理解の上で「不快」「危険」「お勧めできません」と言われているのでしょうか?わたしはこの分野以外の分野で、このサービスの中で明らかに間違った情報が、あたかも専門的に正しい情報であると言いきっている回答者がベストアンサーになっているのをたくさん見てます。内容の性質上危険だなと思うことも多いです。
おおむね、「不快」と言っている人の書きぶりは冷淡かつヒステリックな印象を受けます。しかし、その対象となっている開封確認ということとそれに対するそうした態度というもののバランスが私には奇妙でしかたがありません(笑)
機能の問題としては、開封確認はとても合理的です。開封確認をサポートするメーラの中でもMicrosoftのそれはいまだに圧倒的なシェアがあると言って良いと思います。また、他のメーラとも互換性があるのはご存じと思います。本来、メールのやり取りは可能な限りメールのみで完結させてはじめて高い生産性を享受でき、メールが届いたかどうか電話で聞く必要があったり、それがやりづらいので電話もせず、到達したと決め打ちするか一抹の不安をもったままあいまいにしていることが多い従来の方がいかにもリテラシーが低いのであり、開封確認をしたい送信者やその機能に対する批判は筋違いではないかと考えるわけです。
どうなのでしょうか?
「不快」に感じるのははたして常識的に普通の感情なのでしょうか? 「はい/いいえの選択」がそんなに負担なのでしょうか? 危険性?に技術的な確信はあるのでしょうか? 単に受信側のセキュリティーの低いことが機能の危険性にすり替えられているだけではないのでしょうか?
※ 誹謗でなく、回答を希望