※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:創価学会の正しさは結果で検証されたのですか)
創価学会の正しさは結果で検証されたのですか
このQ&Aのポイント
創価学会の正しさを結果で検証するためには、疫学的手法を用いて信仰の効果を調査する必要がある。
創価学会は特異な事例や個人的な要因を排除し、信仰の効果を客観的に抽出することができる。
しかし、学会の真理性を示す統計的証拠は限られており、新潟大火の事例だけが知られている。
創価学会は、信心の力のたすけで客観的現実が変えられる、とそう主張します。つまり、熱心に信心すれば、境涯がかわり福運がつき、自らの生命力が向上し、最終的には客観的現実を変えられる。逆に他宗やプラセボへの信心ではこんなことは生じないで、逆効果になるというわけです。もしそれが正しいのなら、中間のステップは人知を超えて解明不能でも、両端の信心行為と最終結果については客観的に観察可能なのですから、きちんと検証可能な形で相関関係を提示できるはずです。
ただし、よくある体験談は客観的な証拠とはいえません。それには次のような可能性が否定できないからです。特異的な事例だけが報告される、脚色がある、強い感情的負荷に解釈が影響をうける、馬鹿に出来ない暗示の効果。(体験談は他宗でもありふれています。例えば中世キリスト教で大流行した奇跡譚は体験談とそっくり。)
もちろん、人間は多いのですから特異事例もありえます。仮に学会が正しくても、学会員にも不幸になるものもいるでしょうし、念仏者が成功することもあるでしょう。こういう信仰の効果に反する事例を除去し、信仰の効果を検証するには疫学的手法が有効です。十分に大量のデータを集めれば、特異な事例や個人的な事情や暗示などのノイズは相殺されて、平均すなわち純粋に「信仰の効果:ある信心を熱心に実行した場合に発生する現実の傾向」が抽出できるでしょう。例えば、学会員と一般人(又は他宗信者)を分け無作為で一万人以上のサンプルを抽出し、ガン死・ガン有病率・治癒率/災害時の被災率/人口当たりの階層上昇率等を比較すればいいと思います。(コーヒーの癌抑制効果について思い出してください。効果の機序はまったく不明でも、定説になっています。)
逆に、もし結果の数字がかわらないというなら、学会をやっても(他宗をやっても)、プラセボ(暗示効果)以上の効果はないということです。
ところが、そのような統計的証拠が提示されたのは、知る限り新潟大火の被災率ただ一つだけです(人間革命1巻:新潟大火で焼けた900件のうち学会は2軒というもの、これだけでは各種の解釈があり得るので証拠として弱すぎますが、災害時に毎回そうなら創価学会の真理性を強く示すことでしょう)。
さて、学会が自らの正しさと結果を、きちんと検証可能な形で報告することは、以下の理由で必要だと思います。
1)世界に広宣流布しようとする場合、正しい証拠があれば他宗を圧倒する強烈な力を手に入れられる。入信し広宣流布につとめるのは個人的な好みや決断などではなく、正義と真理を愛する者の聖なる義務になる。
2)他宗はそれなりの存在意義があるのに、それを排撃し強引に折伏する等、学会だけが世界を救えるという言動が正当性をもつのは、実際にそうである場合に限られる(*)。
3)学会会員に沢山のひどい目にあった私ですが、証拠が出てくれば当然に入信します。
(*)勿論証拠がないことで心の支えとしての学会が否定されるわけではありません。その信念に満ちた力強いメッセージはある人の救いとなることでしょう。ただし、学会とは別の言葉で救われる人、別の言葉でくみ取られる経験があることは、忘れてはなりません。それゆえ、もし、真理が自分らの信念にすぎないのなら、別のことを信じている者に対しそんなことを強要してはなりません。
私が知らないだけで、学会は真理を持ち構成員も特別だと、どこの誰に対しても堂々と示せるような結果は示されているのですか。例えば、新潟大火の事例のように「2回の震災で学会員はほとんどだれも損害をこうむらなかった」、もしこういう結果が示されれば、立派な証拠になることでしょう。
(残念ながら個人的な経験では、学会員はよくて普通の日本人と同等で、特別に豊かだったり、幸福だったり、知恵にあふれていたり、心底から正義漢・善人だったり、信者間の葛藤がなかったりするようには見えません。中には幸せな人もいるようだけれど、貧窮の中に死んだ人、信心一家で嫁姑をやってるケースは何人も知っています。私も折伏を受けた人に大金をだまし取られました。)
お礼
私は宗教の基盤にある体験とは、例えば「ふと世界や自分が全く変わって感じられた」、そういうものであると思います。そして、確立された特定の教義とは、手持ちの言葉と思想を使って、その体験を何とか言い当てようとしたものであると考えています。それゆえ、教義はそもそも歴史的な存在にすぎませんし、体験は対象化できるわけではなく、いずれも科学のように真偽どうこうを言えるようなものであはありません。 ただし、宗教体験にふれることによって、人は少しづつ変わることができるのかもしれません(これは精神療法に通低するかもしれません)。 しかし創価学会は、信心することでまるで医薬のように現実を変えられると主張します。病気平癒・もうかる・立身出世(逆に信心しないことで現実を悪い方に変えられるとも主張する)。学会の主張が正しければ、現実は観察可能なのですから、信心の結果をデータとして統計処理することは可能なはずです。 さて、創価学会は会員に特定の行動や価値観を強要しますし、強引に勧誘し他宗を邪教として破折しようとします。どのような思想も宗教も、心の支えとして十二分に価値があるのですから、あるいはどのような生き方や感受性も世界の豊かさを作り出すものなのですから、創価学会が真理でなければ、学会の言動は許されざる悪です。もしそれが許される場合がありえるのは、創価学会が言うように「他宗を信じれば不幸が訪れ、学会を信じれば幸福になる」「信徒が創価学会的な生き方を実践する場合にのみ、幸福になれる」ということが明瞭に真理であると証明されている場合だけなのです。 それゆえこの問いは、創価学会がまっとうであるのか、あるいは単なる数多のカルトの一つにすぎないのかを測るリトマス試験なのです。私としては、創価学会からの投稿も期待していました。彼らができることは2つ。一つは私の問いが無意味であると、十分に説得的な仕方で示すこと。もうひとつがはっきりとしたデータで創価学会の主張の正しさを示すことです。 残念ながら、そのようなものは提出されていいません。創価学会は、自分がそうであると主張するもの、すなわち「普遍的な究極の真理」などではなく、単なる世にありふれた信念体系なのでしょう。(余談ですが、こういうところも共産主義とそっくりです。知り合いの中国人がまるで文革とひどく嫌っていました。) 有効な答えが皆無ということは、現時点では学会員みずからが、学会は「普遍的な究極の真理」ではないということを示したと、そう解釈しておきます。 ただ、いろいろ調べたのですが、いまはもう創価学会は衰退・崩壊期に入っているようですね。学会にもそれなりのもっともらしさもありますし、仮に成長期であれば将来には恐ろしい姿を現しかねないと、その本質をきちんと示しておく必要もあるのでしょう。しかし今はもうその必要もないのかもしれません。あと30年もすれば学会も歴史の一こまになり、ごく一部の人だけがなおも信じるみょうちくりんな信仰にすぎなくなるのかもしれません。 ともあれ、学会員はどう考えるのかと、あのようなカルトまがいの言動を繰り返してもやはり「普遍的な究極の真理」を持っており、私も再開するべきであるか否かをぜひ知りたいので、いずれの日にかもう一度同様の質問を行います。
補足
質問時点できちんと書かなかった方が悪いのですが、私は退会者です(形式的にはまだやってます)。なんとか逃げてきたというのが本当のところ。 わたしは今も昔もまったく学会と反対の気分・価値観をもってるわけですが、そんな人間に対してもあいつら人間関係で絡めとろうとする。いったん、入信すれば強烈な人間関係のネットワークで、特定の価値観に基づく生き方をを強引におしつけてきます。私のように人間関係に弱点がある人間は、蜘蛛の糸に絡みとられたみたいでどうしようもできず、もうぐしゃぐしゃにされてしまいます(精神病になった症例報告も沢山見ました)。 もちろん山ほど「マインドコントロール」もやる。やめたら無間地獄落ちだぞってね。普段はばかばかしいと思っても、人間ピンチになることがあるでしょう。いや、一人夜道を行くときとか暗闇に目覚めた時だって。そんなときひどく不安でねえ。 私の場合は引っ越しをきっかけに消えてしまったわけです。退会届でも出したら、また連日押し掛けられてとおもうと、恐ろしくてね。そいでも学会員が身近に出現し折伏をかけてくることもよくある。本当に恐ろしいです。学会の後遺症で他人と付き合えなくなってしまいました。他人とは限度を超えて強引に寄ってくるという感じがしてね。 私だって、(欧米は知らず)現在の日本で、宗教と科学の関係ははどう扱われているか知っています。それがおかしいとは思いません。(欧米では聖書を一字一句真理であると考えるとか、死後の世界や超能力をデータで検証しようという試みがあるらしい)。 先の問いは、創価学会の主張を、ごまかし・言い逃れを除いて精選すれば、当然こうなるはずのものです。わたしは、これと、意味検証可能性または反証可能性の理論(つまり観察できる経験にもとづいて検証又は反証できないような命題は無意味という主張)に基づいて、自分を納得させているんですよ。創価学会は別に普遍的真理などではないからムシズがはしるほど大嫌いなのに参加する必要はないと、自分を正当化しているのです。 ここにこんなことを書いたのは、もしいればですが、同様なな状況に陥った人への助け船でもあります。 本当は「禅」の方が、あるいは無教会派キリスト教や新生カトリックの方が、はるかに奥深く、好ましいと思います。まるで唯物弁証法のように薄っぺらで護教論の「生命哲学」なんてね。生命哲学は宇宙を包含するとかいいますが、どうやって「不立文字」を扱えるんですかねえ。