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創価学会の正しさは結果で検証されたのですか
- 創価学会の正しさを結果で検証するためには、疫学的手法を用いて信仰の効果を調査する必要がある。
- 創価学会は特異な事例や個人的な要因を排除し、信仰の効果を客観的に抽出することができる。
- しかし、学会の真理性を示す統計的証拠は限られており、新潟大火の事例だけが知られている。
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まあ、創価学会が目指すところやその効能は知りませんが、まっとうな宗教って別に日常生活のなかで幸運に巡り合う確率を上げるとか、死後地獄に行かないためにやるものではありませんからね。(歴史の中でそっちがものすごく拡大しましたが…) もともとは価値観、世界観の形成、自己の変革を目的とするものですから、「ご利益」とかいうものを喧伝する宗教宗派はよほど注意しなければならないように思います。 私は禅宗を信仰(?この言葉も適切ではない気がしますが)しつつ大学で工学を専攻していますが、別段日常生活の中で信仰と科学について葛藤したりすることはありません。 そもそも目的が違うものですから、宗教の真理が科学的真理よりも偉大とかいうのはちょっとズレてるような気がします。 (そもそも禅とは何か、というのを勉強している最中だからかもしれませんが…) 最新の科学技術があれば世界的名画を画像データにして世界中に配信できますが、最新の科学技術で人に感銘を与える絵を書くことは出来ません。(黄金比とかプロポーションとか科学(経験知?)である程度説明できるという人もいますが…) また、宗教の教えで人に慈悲の心を芽生えさす事ができても、技術と資源がなくては困っている人に実際の便益をもたらすことはできません。 両者の目的は違うものですから、質問者様が求めているモノを良く考え、宗教の教えがその役に立つかどうかを検討されることが必要かと思います。
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- skypee
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どの宗教が正しいとか間違いとかではなく、実際の学会員を見れば分かるように、まともな宗教(信仰)は、心や精神の成長を促すものですから、宗教によって(または信者によって)は縋ったり祈ったりがあっても、最終的には「正しい」とか「正しくない」などと拘るこの「心」は何なんだ?というように、心の問いに向かうでしょう。 つまり、まともな教団(まともな指導者)が、いつまでも「右か左か」「敵か味方か」などと二元論的な考え方ばかりを信者に教え、「自分達は正しい」「学会は正しい」と強く信じる狂信的な信者を作り、教団に依存させ布教活動させるようなことはしない、ということです。 「自分達は正しい」と先に強く信じてしまうことで、「間違った他人の信仰や間違ったこの社会を変えよう」と考えるのはカルト教団のやることで、必ず争いや苦しみ、そして恨み憎しみを作ります。 ですから当然、精神疾患、自殺、犯罪にも繋がることが多くなります。そういう宗教に「信教の自由」はありません。 もちろん中には、適度に前向きな自分に変われたことで「この信仰jは素晴らしい」と思っている人がいても不思議ではありません。
お礼
ある宗教は、内から見れば唯一絶対と見え時にはそのこと自体が存在意義になっているのですが、外から見れば沢山の体系の一つにすぎない。昔は今ほど情報の流通が盛んでなかったから、似たようなことしゃべる身近な人とだけ付き合っていたはずだから、内向きの観点ばかりでも通用したんでしょう。 西洋を見ましょう。ちょっとでも考えが違う人は「異端」といわれて、焼かれることになりました。憎しみ合って戦争を繰り返しているユダヤ教とイスラム教とキリスト教は実は大変ちかい親類です。おかげで、近代憲法原理の政教分離が確立されましたし、カトリックだって改心し、今は諸宗教の和解を主導しています。 日本では殺人にまでは至りませんでしたが、鎌倉時代なんかは同様のロジックが支配していたんだと思います。例の念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊、なんてのが堂々と通用していたんでしょうね。いまでも鎌倉時代の水準のままで良いと考える人たちがいることに、本当に驚いてしまいます。 (記憶によるので間違いかもしれませんが)同じ鎌倉時代でも親鸞は書状に、弥陀や浄土というのは寄り代(信者がすがるためのイコン)であると述べていた記憶があります。彼は、それらは虚妄であると言っているのではないのでしょう。彼はそれの真理性を云々することより、無条件でそれに寄ることで得られる安心や救いこそが求められていることだと言いたかったんでしょうね。昔の人間とは思えないような成熟した態度だと思います。
- under12
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( ゜Д゜)_σ異議あり!! 質問文が矛盾しています。 >>私も折伏を受けた人に大金をだまし取られました。 >>証拠が出てくれば当然に入信します。 これが同時に成立するとは考えにくい。暇つぶしの投稿はやめましょう。 薬でも同じように、臨床実験というのがあります。 やってみて嫌ならばやめればいい。質問文に文字数ほどの価値を感じない。
補足
折伏した人は、私と濃密な人間関係や信頼関係を作り、そのうえで「カネがいるので貸して」といって300万円ほど用立てさせました。そのあと、消えてしまったわけ。50万円ほどは返してもらったんで、初めからだますつもりではなかったんでしょうけど。 私は、20年前の一般学会員のような「御利益追求」には虫酸が走ります。しかし彼に学会は科学的真理(かつそれ以上)であるといわれ、それ以来学会を好き嫌い等の個人的な視点から判断はしないことにしています。例えば仮に彼が悪くても、池田大作が悪くても、それは特異例なのかもしれません。 私は真理という証拠があれば信じる、学会についてはそれだけです。私はフッサールの弟子を自任するものです。個人的なあれこれなどで人生を決定をしたくなどありません。一g版の問題は普遍的真理にどうやったら即すことができるかなんです。 朝晩の勤行で「御利益不要」「真理である証拠を」と必死に祈ったのですが、当時も今も証拠は出ません。
「宗教」って一体何なの? 「民族という名の宗教」でも読んでみたら? 「宗教」の本質を考えるきっかけにはなるよ。
お礼
わたしは、人間に共通する「聖体験」というのがあると思います。「聖体験」は実際に聖なるものをとらえているのか、単なる幻影なのかは誰にもわかりません。宗教はその時点での手持ちの言葉や思想で、その聖体験を何とか言い当てようとしたものだと考えています。それゆえ、諸宗教の根は同じではないか、そう思っています。 (そうはいっても、キリスト教と仏教の差はひどく大きいのですが。たとえば、釈迦仏法では、死後も残る霊魂の存在を否定しているという説を聞くことすらあります。) 今は情報化が進み、世界各地で絶対に正しいと信じられている諸宗教を知ることができるようになりました。自らの宗教を絶対だとカリカリに信じるより、上のように考えるほうがまともでしょう。そして知見が広がったことをとらえて退歩となどいうことはできないのです。それゆえ創価学会にはひどく違和感を感じています。「まるで中世だ」と。 それなのになぜこのような問をだしたか。それは後ろの回答にもありますように、かつて自分が飲み込まれかかったものにたいして「それは絶対性などもたないのだから、するかしないかは単なる個人の好みにすぎない」と強く主張するためのものです。そして私と同様の人、すなわち学会への入信が救いにもならないにもかかわらず飲み込まれかかっている人に、橋頭保を提供するためでもあります。 もちろんOKWaveは学会員にも開かれており、私の問いは意図には関係なくニュートラルです(すべての問いは背後の意図に制約されると言う主張は、共産党にも共通する臆見です。そんなことはありません。)。学会員は、私の問いに対して2つのことができます。ひとつは、私の問いが無効であることを十分に納得できる理由に基づき示すこと、もうひとつがきちんと証拠を示して自らの正しさを示すことです。後者は広宣流布のきっかけになることでしょう。 なお、上に挙げた新潟大火の例ですが、小説「人間革命」にあったにすぎません。本当は小説には証拠力は皆無なんですがね。 「民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理」 は今度読んでみます。ありがとうございました。
- ryuichi118
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どの宗派でもそうなのですが、正しさが結果で検証されることはありません。 むしろ、結果だけで考えれば、学会員と非学会員で差があるわけでは無いのです。 ただ、学会の場合は「自分達が唯一正しい宗教」と信じる人の集団です。 ですので、フラシーボ効果で結果が出た時も「功徳に与ったのは正しい信心をしているから」と思い込んでしまうのです。 他の宗教でも功徳や奇跡体験をした人は多くいますが、他宗の話は嘘か偶然と思い込みたいのです。 自分達が信じているものが正しいと信じたいのが人情です。 そして「信じたい」気持ちを満足させる方法は、正しいからこそ功徳があったと言い張ること。思い込むこと。 それが学会員の思考パターンです。 「南無妙法蓮華経は宇宙の根本法則」と学会員はいいますが、これが本当なら客観的に納得できる説明があって然るべきです。 実際には何一つ提示できないのと似ていますね。
お礼
創価学会は「説明できない」ことについて、戸田城星などの言をひいていろいろいいたてますが、詳細に検討すると言い訳に過ぎない様に思います。結局、自分の信念を守りたい、それだけだと思います。
- fujitapari
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宗教は良い点は多々ありますが、一番の問題は他の宗教や信者を批判することです。 それによりおきた戦争や争いは過去から現在まで数知れずあります。 他の宗教を受け入れないのは、それをを批判することで自分の宗教の優位点を強調するためだと思います。 そして、自分たちの利益の確保をしてるのでしょう。 激しい人集めや退会の引き止めを行う宗教は、まともな宗教でないと考える方が良いと思います。
お礼
ご意見はに賛同いたします。 かつてたっぷり血を流したカトリックは、今は覚醒したようですね。諸宗教の和解などを主唱していますし、いちいちはあげないのですが、平和に対して実際に大きな貢献をしています。 対して創価学会はまともとは思えません。(平和活動はしていますが)
- OKWaveNo1(@OKWeveNo1)
- ベストアンサー率16% (141/864)
会員数を水増し公表しているでしょうから、 統計は意味がなさそうです。 会長は重病という噂が本当なら、 数年後にお家騒動が起こりそうです。 これを乗り越えてなお、広宣する力がある 集団かどうか、疑問です。
ずいぶん難しく考えるんですね(^^;) 人間が考えた言葉の羅列が現実に物理的に作用するなんてありえないじゃないですか ただ、人間関係が広がれば有る程度のコネが効くってのはあります その程度ですよ
- tony3303
- ベストアンサー率27% (348/1275)
仏教の真髄は誰なのか・・・個人の自由ですが、その仏が人気をだめにしたり良くしたりはする事はないでしよう、それは 私利私欲の多い人間が作ったものであり、信仰して良ければよし、お金を貢いで良くなればそれも良しですが、それは仏の仕業ではないと言う事だけは確かで、仏が罰を当てるもので有れば、そういう仏を信仰する必要はないのです、仏はみんな同じ心のお人です、悪いか良いかの判断は自分でする事ですね。
お礼
私は宗教の基盤にある体験とは、例えば「ふと世界や自分が全く変わって感じられた」、そういうものであると思います。そして、確立された特定の教義とは、手持ちの言葉と思想を使って、その体験を何とか言い当てようとしたものであると考えています。それゆえ、教義はそもそも歴史的な存在にすぎませんし、体験は対象化できるわけではなく、いずれも科学のように真偽どうこうを言えるようなものであはありません。 ただし、宗教体験にふれることによって、人は少しづつ変わることができるのかもしれません(これは精神療法に通低するかもしれません)。 しかし創価学会は、信心することでまるで医薬のように現実を変えられると主張します。病気平癒・もうかる・立身出世(逆に信心しないことで現実を悪い方に変えられるとも主張する)。学会の主張が正しければ、現実は観察可能なのですから、信心の結果をデータとして統計処理することは可能なはずです。 さて、創価学会は会員に特定の行動や価値観を強要しますし、強引に勧誘し他宗を邪教として破折しようとします。どのような思想も宗教も、心の支えとして十二分に価値があるのですから、あるいはどのような生き方や感受性も世界の豊かさを作り出すものなのですから、創価学会が真理でなければ、学会の言動は許されざる悪です。もしそれが許される場合がありえるのは、創価学会が言うように「他宗を信じれば不幸が訪れ、学会を信じれば幸福になる」「信徒が創価学会的な生き方を実践する場合にのみ、幸福になれる」ということが明瞭に真理であると証明されている場合だけなのです。 それゆえこの問いは、創価学会がまっとうであるのか、あるいは単なる数多のカルトの一つにすぎないのかを測るリトマス試験なのです。私としては、創価学会からの投稿も期待していました。彼らができることは2つ。一つは私の問いが無意味であると、十分に説得的な仕方で示すこと。もうひとつがはっきりとしたデータで創価学会の主張の正しさを示すことです。 残念ながら、そのようなものは提出されていいません。創価学会は、自分がそうであると主張するもの、すなわち「普遍的な究極の真理」などではなく、単なる世にありふれた信念体系なのでしょう。(余談ですが、こういうところも共産主義とそっくりです。知り合いの中国人がまるで文革とひどく嫌っていました。) 有効な答えが皆無ということは、現時点では学会員みずからが、学会は「普遍的な究極の真理」ではないということを示したと、そう解釈しておきます。 ただ、いろいろ調べたのですが、いまはもう創価学会は衰退・崩壊期に入っているようですね。学会にもそれなりのもっともらしさもありますし、仮に成長期であれば将来には恐ろしい姿を現しかねないと、その本質をきちんと示しておく必要もあるのでしょう。しかし今はもうその必要もないのかもしれません。あと30年もすれば学会も歴史の一こまになり、ごく一部の人だけがなおも信じるみょうちくりんな信仰にすぎなくなるのかもしれません。 ともあれ、学会員はどう考えるのかと、あのようなカルトまがいの言動を繰り返してもやはり「普遍的な究極の真理」を持っており、私も再開するべきであるか否かをぜひ知りたいので、いずれの日にかもう一度同様の質問を行います。
補足
質問時点できちんと書かなかった方が悪いのですが、私は退会者です(形式的にはまだやってます)。なんとか逃げてきたというのが本当のところ。 わたしは今も昔もまったく学会と反対の気分・価値観をもってるわけですが、そんな人間に対してもあいつら人間関係で絡めとろうとする。いったん、入信すれば強烈な人間関係のネットワークで、特定の価値観に基づく生き方をを強引におしつけてきます。私のように人間関係に弱点がある人間は、蜘蛛の糸に絡みとられたみたいでどうしようもできず、もうぐしゃぐしゃにされてしまいます(精神病になった症例報告も沢山見ました)。 もちろん山ほど「マインドコントロール」もやる。やめたら無間地獄落ちだぞってね。普段はばかばかしいと思っても、人間ピンチになることがあるでしょう。いや、一人夜道を行くときとか暗闇に目覚めた時だって。そんなときひどく不安でねえ。 私の場合は引っ越しをきっかけに消えてしまったわけです。退会届でも出したら、また連日押し掛けられてとおもうと、恐ろしくてね。そいでも学会員が身近に出現し折伏をかけてくることもよくある。本当に恐ろしいです。学会の後遺症で他人と付き合えなくなってしまいました。他人とは限度を超えて強引に寄ってくるという感じがしてね。 私だって、(欧米は知らず)現在の日本で、宗教と科学の関係ははどう扱われているか知っています。それがおかしいとは思いません。(欧米では聖書を一字一句真理であると考えるとか、死後の世界や超能力をデータで検証しようという試みがあるらしい)。 先の問いは、創価学会の主張を、ごまかし・言い逃れを除いて精選すれば、当然こうなるはずのものです。わたしは、これと、意味検証可能性または反証可能性の理論(つまり観察できる経験にもとづいて検証又は反証できないような命題は無意味という主張)に基づいて、自分を納得させているんですよ。創価学会は別に普遍的真理などではないからムシズがはしるほど大嫌いなのに参加する必要はないと、自分を正当化しているのです。 ここにこんなことを書いたのは、もしいればですが、同様なな状況に陥った人への助け船でもあります。 本当は「禅」の方が、あるいは無教会派キリスト教や新生カトリックの方が、はるかに奥深く、好ましいと思います。まるで唯物弁証法のように薄っぺらで護教論の「生命哲学」なんてね。生命哲学は宇宙を包含するとかいいますが、どうやって「不立文字」を扱えるんですかねえ。