創価学会の者です。
我々もよく、創価学会を目の敵にする勢力から、「日蓮の教えを実践したいと言うのなら、池田による信徒支配の道具になっている創価学会という組織(団体)から離れ、一人でやるべきだ。組織こそすべての諸悪の根源なのだ」と論難されています。
しかしながら、日蓮仏法は「異体同心」の仏法です。「異体」とは、一人ひとりの個性や社会的立場が異なることをいい、「同心」とは、志や目的を同じくして力を合わせていくことをいいます。すなわち、御本尊を信じる心、日蓮仏法を弘めようと目指す心を共にすることです。それぞれの個性、才能の差異を認めたうえで、同志として尊敬し、励まし合っていく。そこに日蓮仏法を弘めようという目的を達成することができるのです。一人ではできません。それゆえ、創価学会は「人々の集まり=組織(団体)」を大切にします。
人の心は移ろい易く、はかないものです。ましてや末法という時代相は、信心の実践を妨げるような悪縁が凄まじく多い。いざ困難に直面すれば、一人きりでは自分の弱い心に流され、なかなか解決の糸口はつかめないものです。最悪の場合は、信心を破られて退転することになってしまう。「すこし健(けなげ)の者も独(ひとり)なれば悪(あ)しきみちには・たうれぬ」(三三蔵祈雨事、日蓮大聖人の御言葉)。少しくらい壮健な者でも、一人きりであれば、険(けわ)しい道には倒れてしまう、ということです。「人間」は「人の間」と書きます。人が困難に直面したとき、組織があればお互い助け合えるのです。
それにもう一つ大事なことがあります。学会を誹謗する勢力は、池田名誉会長のことを「教祖」などと皮相的な言い方をしてバカにしていますが、我々学会員にとっては、池田名誉会長は「教祖」ではなく「師匠」です。
「師弟相違せばなに事(ごと)も成(なす)べからず」(華果成就御書、同)。
「学問でも、武道でも、あるいは芸の道でも、何かを学び、究めようとするならば、必ず師匠、指導者が必要です。ましてや人生の真実の価値を教え、人間の生き方を説く仏法を学ぶには、師匠の存在は不可欠です。師匠がいないということは、生き方の具体的な規範がないということなんです」(小説 新・人間革命「本陣」の章より)。
このような師匠は、創価学会という団体に所属するからこそ得られるのです、師匠を持たない人生というのは、どう取り繕ってみても、結局「広大な砂漠の中を、方位磁石も持たず一人であちこち迷い歩く」のと同じである、と言うほかはありません。
それゆえ、信心を実践するにあたっては、組織(団体)に在籍することが大切になってくるのです。
お礼
とても参考になりました。 御存知やは知りませんが、一応まだ婦人部のものです。 異体同心 これは組織との距離感がありながら 距離感をかんじない部分であります。 もう 仰います通りで!。 ご回答ありがとうございました。