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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:自分に自分を認めさせるには)

自分に自分を認めさせる方法とは?

このQ&Aのポイント
  • 自慢癖を直すには、自分に自分の価値を認めさせることが最短だと思っています。
  • 自慢癖は自信がないから生まれるものであり、他人の同意を求めているように思えます。
  • 自慢癖を直すためには、自分への自己評価を高める方法を探る必要があります。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fujitapari
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回答No.4

最初の回答者へのお礼の中で、「能力はあるが人格に自信がない」というようなことが有りましたが、それは大なり小なり誰でもあると思います。 機械や車に言いかえると、能力は性能で人格は操作やソフトに当たると思います。 性能は、スペックですから、動かさなくては効果は出ません。 良い操作をしなければ、存在価値がありません。 ですから、人格も能力です。 自分で評価していないのは、行動に目的意識が足りないかもしれないですね。 「誰のために、何のために性能を発揮するのだ」ということを意識し、効果を考え行動すれば、認めてもらると思います。 少なくとも、自分で満足感を味わえると思います。 自信は、そういうことの繰り返しでついてくるものですから、自然と不要な自慢が減り、人格も磨かれるでしょう。 でも100%能力を発揮することは難しいです。 性能を上げる努力も大切ですが、低い性能をフルに発揮する方法を考えたり、逆に人に自分の能力を使って高めてもらうことも、一つの方法です。 その為に、自分の長所をアピールすることは良いことといえます。 日本人の弱いところと言われていますね。 このあたりを上手く行うのが、人生の達人になるコツですね。 そう思い、皆苦労しています。 少しでもお役にたてば、嬉しいです。

jsapp
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 御礼が遅くなり大変申し訳ありません。 その後、この問題は自我の根幹の歪みに由来する可能性があるとの判断から、 子供のころの記憶を掘り起こしてみました。 記憶を発掘整理してみたところ、 どうやら母親からの消極的ネグレスト(育児放棄)があった様子で、 自分の人格に価値を見いだせないのは 「自分がネグレストされているのは、自分が無価値であるためである」 と合理化していた名残りであるようです。 私が成長し、それなりに優秀であることがはっきりしてくると、 父親は私を大切に扱うようになりました。 それを受けて、 「自分は無価値な存在だが、能力がある場合に限り例外的に価値ある存在になる」 と錯覚していた様子です。 自分のことを「もし能力が無ければ、能無しのゴミクズ野郎」と受け止めていたのは、 そういう経緯によるものの様子です。 >「誰のために、何のために性能を発揮するのだ」 自分の存在価値を守るため、ネグレストの回避のため、最高の性能を発揮しつづけてきました。 子供のころは、常に高性能でなければ、生きていけませんでした。 大人になっても、常に高性能でなければ、自我に価値を見出せませんでした。 生きていくことがつらいときは、ひたすら能力を磨いてきました。 生きづらいのは、性能が足りないからだと盲目的に信じて。 でも、ただ高性能でさえあれば生きていけるほど、世の中は単純ではなくて。 努力さえすれば無限に高性能になれるわけもなくて。 そして自慢に逃げ込んだのです。 でも、もう大丈夫です。 どれだけ高性能になっても、親からの承認は得られないと理解できましたから。 また、もはや親の承認なくとも生きていけると理解できましたから。 >ですから、人格も能力です。 まったくそうだと思います。 人格も能力、能力も人格。 そして、人格も能力も、私。 もはや他人の価値観にあわせ、自己を分割する必要もなくなりました。 お蔭様で、心の中に埋まっていた巨大な地雷を解体処理することができました。 もう卑屈な自慢をしないで済みそうです。 深く感謝いたします。

その他の回答 (4)

noname#132068
noname#132068
回答No.5

お礼読ませてもらって… あなたの能力をあなたも周りも認めるから自慢するのでしょうか わかっていることなら別に自慢する必要はないと思いますよ あなたにはそういう能力は優れているのかもしれませんね けど人格は? もしかしたら結果で判断しちゃうタイプなのかな だから結果を誇らしく感じ自慢しちゃうのかな それか質問にあるように打ち消して貰いたくて自慢するのでしょうか どっちにしても自慢する内容ってものはあなたも周りの人も誰もが認めてるもののはず、あえて言う必要はないってことですよ

jsapp
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 >あえて言う必要はないってことですよ 仰るとおりです。 あえて言う必要はありません。 むしろ、百害あって一利あるかどうかです。 私は子供のころ、悲惨でした。 生きていくことが辛くて辛くて、どうしようもなくて。 そのくせ自分は幸せだ、と信じ込んでいて。 悲惨さを感じることを許してもらえなくて。 「これだけ世話してやっているのに、何が悲惨なのか!」 でもクラスの皆は、私より幸せそうに見えて。 でも、私は皆より幸せでなければならず。 心の中では私の方が悲惨だと分かっていて。 悲惨であることは、親への裏切りだと、そう信じていて。 「苦しいです」 「気のせいです」 「錯覚です」 「被害妄想です」 「何かの間違いです」 「それは嘘です」 この矛盾をどうにかしたくて。 「私を不幸と認めてくれ」と頼む事はできず。 そこで「私の自慢を否定することで、私を不幸だと証明してくれ」と頼み込んだのです。 私の幸せ自慢が否定されれば、私が悲惨だと認識できるからです。 最初の頃は、親の押し付けられた幸せを自慢しました。 皆期待通りの行動をして、私は惨めさを味わうことができたのです。 やがて状況は変化していきました。 「今回のテストは90点だったよ。僕って惨めでしょう?」 やがて、皆は私の状況ではなく人格を否定するようになりました。 それは、とても惨めで。 どうしようもないほど惨めで。 その惨めさがたまらなく心地よかった。 悲惨であるとき、私は私の本当の感情を実感できました。 悲惨であるとき、私は私でいられたのです。 私は、人格否定されるために自慢していたのです。 あのころ、私は理論的に幸せで、現実的に悲惨だった。 だから、私は私を嘘で固めた。どうしようもなく苦しかった。 だが、人格否定されれば、理論的にも悲惨になれる。 理論的に悲惨になれば、理論と現実をすり合わせることができる。 理論と現実がすり合わされれば、私は私でいられる。 と。 今、私の悲惨な時代は過去になりました。 今、私は私の理想を自在に操れます。現実に働きかける力もあります。 もはや悲惨でなくても、私は私でいられます。 今、ようやく悲惨さへの依存を捨てることができました。 これで、前へ進むことができそうです。 ここに相談して本当によかった。 本当に、ありがとうございました。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2313/7949)
回答No.3

ちょっと賢い人になる方法を教えましょうか? 自分が二番目である自慢をしてください。 これがなかなか難しい。 けどね、トップの人に敵わない事を分析することで、自分の価値を知り、他人を尊敬できるし、まだまだ努力のしようもある訳です。どんな夢を語ったってトップになるまでは嫌がられない。 こういう他人にできない思考法を持つ事、あらかじめ話す内容を考えておく事って、自分に自信が持てますよ。

jsapp
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 添付動画、面白いですね! とくに霊夢のやらしい笑顔が秀逸です! 私の自慢は動画のように自分を誇るものではなく、自我の承認を求める自慢だったようです。 自慢する時の私の顔は、卑屈なものだったではないかと思います。 動画のような、人を見下した満面の笑みを、(誉められることでは無いですが) 一度はしてみたいところです。 「自分が二番目である自慢」。 なかなか難しそうです。。 そういえば、私は一番であると自慢したことは、無いです。 「自分が最低でない自慢」ばかりでした。 「どうだ!私は(貴方より)無能ではないだろう!」 「どうだ!私は(貴方より)無力ではないだろう!」 ・・・他人のプライドを踏みにじる、最低最悪の自慢ですね。 弁解の余地がありません。 そして「他人より無能でないこと」を証明するために、 他人のプライドを踏みにじるために、魂を削るような努力してきたのです! こんなやっかいな人間が居るでしょうか! 努力すればするほど、人は私から離れていきました。 私はそれを恐怖し、より一層の努力をしました。 まさか、まさかこんな仕掛けがあったとは! お蔭様で自分を見つめることができました。 足元の蟻地獄に気付くこともできました。 これからは、人並みに生きていくことが出来るような気がしています。 深く感謝致します。

回答No.2

自慢は基本的な煩悩で、100%の人がもってると思います。 正直私も、60歳で、それなりの大学院をでて、会社を経営しています。 このため自慢をする傾向が強いですね。 おそらく慢心が最後の煩悩と思えるほど強く感じます。 ただしこのことを嫌うのではなく受け止めるようにしています。 また慢心がでているなと気づき、慢心してよいことはあるのだろうか? と自問しますと、何もよいことはないことがわかります。 おそらく遠い昔は自分を鼓舞し、勢いつけるために必要な悪癖だったと思います。 (無理やりのがんばりより自然な熱意がよいですね) 今はえばる対象(見下す相手)と自分の違いはないことにも気づいておりますので 出たらすぐに自分を許します。 全ての人の根は同じ根に繋がっています。 花の咲き方が異なるだけです。 たとえばくたびれた人はこのことを体験しているだけです。 あなたも慢心の感情を体験しているだけです。 どうぞ自分をお許しください。 最後に自分を責めないでください。 自分の暗闇も光の部分と同じく受け入れください。 このことを意識してますと、慢心も暗闇も消えていきます。 あと10年程度はためている感情が増幅することが多いと思います。

jsapp
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 御礼が遅くなり大変申し訳ありません (私の場合、御礼差し上げるのに1時間以上かかってしまうので・・) 私の自慢は、慢心ではないように思えます。 私の場合、驕ると夢(あるいは夢物語)を語りだします。 「俺には出来る!何でも出来る!他人にやれないことも、俺なら出来る!」 「私には夢を叶える能力と経験と、根性そして覚悟がある!」 と。 自慢するときは心が弱っているときです。 「私には出来ない」 「何も出来ない」 「でも、そんな事ないよね?これは僕の妄想だよね?」 「だってほら、こんなに実績を積んできたのだもの」 「ほら、この事も、あの事も、その事も、皆僕が無能でないと証明してくれている」 「お前は何も出来ないゴミクズだなんて、頼むから言わないでくれ」 「出て行けって、お願いだから、言わないで」 と。 少なくとも、私は猫の手よりは有能です。 居ないよりは、居た方が多少でも有益なはずです。 いや、そんな事もないですね。 私が居ない方が有利である場面も確かにあります。 私の存在が有益であろうがなかろうが、私はここに居たいと思う。 私はここに居たいと思う。私が有益であろうがなかろうが、そんな事はどうでもいい。 私の意志は私が決める。 誰にも文句は言わせない。 ・・そうでした。 私は「ここに居たいと思っていいよ」と許可を得るために、自慢していました。 「ここに居たいと思っていいよ」と許可を得るために、努力して、能力を身につけました。 「ここに居たいと思っていいよ」と許可を得るために、無理して、残業して、突っ走って、 自慢して、他人の顔色を伺って、道化を演じてきました。 そんな事をしても、許可は下りない。 何をしても、許可は下りない。 そもそも許可なんか必要ない。 私はここに居たいと思う。ただそれだけで良かったのです。 有難うございました。 お蔭様で、自分の何が自慢に向かわせていたのか、ようやく自覚できました。 深く感謝いたします。

回答No.1

「人は人、自分は自分」と思えば良いではないですか。 自分が出来なくても他の人は出来るのもを観すぎるから自身が無くなるのでは? そういったものを観ても「凄いな~」位に受け止めるか 「自分も出来るようになってやる」と思えば、出来るようななる度に自信が付きそうですね。 ネガティブ思考より 「自分は賢くない」、けど色々な事が出来るし話題も豊富だぞ~と考えてみる。 「自分はどれだけ仕事をしても、本当の意味では仕事をしていない」手抜きでも仕事を普通にこなせてる。つまりもっと追い込まれても余力が在る分対応ができるな。 「自分はどれだけ苦労したと感じていても、本当の意味では苦労していない」逆境に強い、苦労を苦労とも思わない精神的に強い。 上記のようなポジティブ思考へ見方を変えて考えてみたら宜しいのではないでしょうか? 私なんか自慢出来るのは自虐ネタ位ですので、自慢どころか人と話す事の方が少ないです(自虐?)。 お陰で無口やクールのイメージが付いていますが、要するに話す話題が無いだけなのです。 私は人の評価等は如何でも良いと考えていますので自然体のままで居ます。 まぁ、自慢話は余り歓迎されませんので控えておいた方が吉でしょうが、控えめな自慢話程度でしたら問題ありませんのでは? 何が書きたかったのか、わからなくなってきましたので以上にします。

jsapp
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 私は、自分の能力に対して、自信を持っています。 周囲も、自分の能力に対して、正当な評価をしてくださいます。 問題は、能力は評価されても人格は評価されないという点です。 私の自我は、2分割されています。 能力と、人格にです。 私は、私の能力に、私の存在意義を強依存しています。 私は、私の人格に、存在意義を見出しません。 私は、私の人格に価値を見出そうと、私の能力を誇示します。 能力をどれだけ誇示しても、人格に価値が見出されることはありません。 私は、能力があるからこそ存在に意義があるのであって、 能力が無ければ、能無しのゴミクズ野郎なのです。 私はこれまで、盲目的に能力を磨いてきただけでした。 何も考えず自分磨きをするだけでは、駄目だったのです。 まだ何か、何か工夫が必要なのです。 お蔭様で、自分を見つめることができました。 深く感謝いたします。