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死んでからの為? 生きている今の為?
死んでからの為? 生きている今の為? 両方の為? いつの為? に信仰は あると お考えですか。 又 それはなぜですか。
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今、生きるためにあるのだと思います。 私は何の信仰にも属していませんが、日本の何物にも神が宿っているという考えは信じているのです。 そのほうが、道徳が身に付く(変な言い回しですね)気がするから。 誰かが見ていると思うから、悪いことにも近づかず。誰かが気付いてくれると思うから、小さな良いことを積み重ねようとするのだと思います。 お天道様が見ているという言葉は、私の中の信仰心を意識する言葉です。
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- zebura23
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本来、 人間は生きつづけている意識体ですので、 それを身体がある、身体がなくなった、と分けて考えるところからの あなたの問いかけであろうと思います。 宗教や信仰は 人々が自分という意識を持つためには、 ある程度助けにはなったと思います。 今の時代 すべての既存の宗教が 今までのように人類の先頭をリードすることはもはや不可能と思われます。 人類の意識はすでに既存の宗教を超えてしまっています。 すでに人類は宗教を必要としません。 でもそのことを一番受け入れられないのは 宗教に関わっている人々であろうと思います。 それはよくわかります。 でも時代は思ったよりも速く進んでいるようです。 自分の立場を宗教に関わるものとしてではなく 人に説いている宗教が自分にとって何なのかを 真摯に問いかけ、突き詰めることで これから何が自分に必要なのかが見えてくると思います。 キツイことを申しましたがお許しください。
お礼
どの部分がキツかったのかと… とても参考になりました。 ご回答ありがとうございました^^。
- やっちゃん(@510322)
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今この時、この一瞬を精一杯生きれば、 現在生きているとき、大往生したときに、 「為」の意味、価値が見えるのでは・・・。 「為」は、何かをするための理由付けのように思いますが、 本来は、自分が生きるための指針ですかね。
お礼
参考になりました。 ご回答ありがとうございました。
お礼
とても共感致しました。 一つに拘ろうとする 疑問が違和感になり、そして苦痛となっていたのかと。 自然は良いですね。 参考になりました。 ご回答ありがとうございました。