- ベストアンサー
元ヤクルト古田氏
元ヤクルトの古田氏は、監督にもすごくむいていると思うのですが、ヤクルトの監督時代、成績がさんざんだったのは、どうしてなのですか??、 ただ「監督、コーチの経験が少ないから」だけなのでしょうか??
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>ヤクルトの古田氏は、監督にもすごくむいていると思うのですが、ヤクルトの監督時代、成績がさんざんだったのは、どうしてなのですか??、 ただ「監督、コーチの経験が少ないから」だけなのでしょうか?? ↓ 野村監督の下での戦力の充実・若手の台頭・ID野球の浸透が相俟ってシリーズ制覇や日本一に・・・ チーム生え抜きの若松監督に引き継がれた中でAクラス常連の円熟期を迎える。 ところが、ベテランが多くなり、先発陣に絶対的なエースや先発陣のコマ不足、主力バッターのベテラン中心やケガ&故障選手の出た時の層の薄さが露呈。 特に、強豪チーム、優勝チームには名捕手の存在が言われる中、古田の故障や不振がチーム&投手成績に影響していた。 徐々に、成績の下降期に入るも、球団の大型補強は無くて、巨人・中日・阪神の戦力の質量共の充実にて総合力で苦戦が続く。 やがて、チームの生え抜きの人気スター・野村ID野球の申し子とも思われる古田選手がプレーイングマネージャー(選手兼監督)に。 ところが、率先垂範の捕手「古田」が故障や選手への遠慮からか、出番が少なく成績も不振、出番の現象はインサイドワークや作戦にも影響し、チームの低迷へと悪循環を起こす。 野村・中西等の場合もそうだが、選手で超一流と言えども、典型的なタテ社会(先輩・後輩)と実力主義(成績評価)のモザイク世界であり、さらに人気(ファンや球団査定)や派閥的(年齢や学閥や生え抜きと外様)な対立や葛藤がチーム状態の不振時には、輪をかけて顕在化し、責任論と戦犯探しの中ではエスカレーションしがちである。 そのような時期には、同じ釜の飯(2軍暮らし・面倒見)・監督やコーチとしての手腕と実績等がバックグランドに無いスター選手には荷が重く、打開する為の経験やノウハウや強力な番頭役の存在も不可欠だったが、チームを纏め切る、引っ張る、独自の戦略戦術家が周囲に居なかった。 試合中もキャンプも采配も育成指導も、ドラフトやトレード、年棒査定にも監督は中心に敵役にも成る事が多いが、選手を兼任し、監督暦も浅く他球団やファームの経験も無い彼にはコネ・ノウハウ・シンパシーが集まり難かったのでは・・・ そのような、時の利・人の利・運の総合面で優勝争いは酷な困難なチーム事情だったと私は思います。 たら・れば・・・で勝手な憶測やIFは出来ても、プロ野球は勝負の世界は、同情されたらオシマイ! 勝って兜の緒を締め、士気を高め、実績で求心力を創りだし、敗者弱者を労わる(実際は、弱肉強食・弱い所を叩くのが必勝の道)のが好循環・常勝球団への始まりである。 古田監督には、時期尚早&経験不足の面とケガの悪影響のハンディキャップを抱えていた悩みとジレンマが主な成績低迷の要因であり、そこに加えて、年齢の若さ・指導者経験の不足が、成績不振の原因とか戦犯だと指弾され、敗因を彼の指導力や作戦の稚拙さに短絡的に見られる苦しさ・不本意な面があったと思います。 <ご参考> 東京ヤクルト時代 [ウイキペディアより編集] 2006年シーズンからは、古田敦也が選手兼任監督として指揮を執ることになった。2005年12月19日のプロ野球実行委員会で、古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。 2006年も前年同様、リック・ガトームソンのノーヒットノーラン等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。 2007年は怪我に泣かされ続けた1年となった。五十嵐、石井弘寿のいわゆるロケットボーイズが2006年オフに行った手術の影響で1年を棒に振ったのを皮切りにディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾など主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的には、首位打者に青木宣親、打点王にアレックス・ラミレス、最多勝投手にセス・グライシンガーを送り込んだもの、シーズン143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。 8月から東京のUHF、東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)で今年度初のテレビ中継が開始(ただし、MXテレビの親会社・東京新聞の関係で対中日戦のみ)。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。 2007年9月、古田監督の現役引退及びヤクルト球団からの退団も併せて発表された。
その他の回答 (2)
- セファット ファリード(@GodGandamu)
- ベストアンサー率41% (172/418)
古田氏がヤクルト時代に苦労していたのは、なんといってもプレイングマネージャーという特異なポジションのせいでしょう。 プレイングマネージャーであるがゆえに、監督業と選手業のどっちつかずになってしまった。 例えば南海でプレイングマネージャーをしていた野村克也氏はヘッドコーチのドン・ブレイザー氏の功績が大きかったと聞きます。 しかし古田監督のヘッドコーチをしていた伊東昭光氏は元々投手コーチ。伊藤氏としても投手陣の面倒をみたかったという部分もあったようです。 結局のところ人選が悪かったorコミュニケーション不足だったというのが失敗の原因だと思いますが、よく考えてみるとそれって監督として本質的な部分じゃないの?とも考えられます。
お礼
そうですか。それでも、野村さんは、昔 優勝したんですね、 すごい人です。
- n99g8n99g8
- ベストアンサー率33% (56/166)
プレイングマネージャー(選手兼監督)を両立するのが大変だったのでは、代打自分とか、古田自身がスタメン出場すると監督業がおろそかになります。
お礼
そうですか、プレイイングマネージャーって、かなりむつかしいんですね(>_<)
お礼
そうですか、いろいろあったんですね。 あんなに、選手としてはすばらしかった古田さんでも、 監督はむつかしいんですね。 また、いずれ、ヤクルトか、どっかのチームで、コーチや監督 をやると思いますけど、そのときに期待したいです!