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特急さくら号について
特急さくら号について 今は無きさくら号ですが東京―長崎・佐世保間を走っていました。 佐世保行きについてふと思ったのですが 佐世保の手前の早岐で(遠距離にしては一歩手前)で向きが変わりましたが(線路のレイアウト上やむを得ない)あれはそれほどやる意味あったのでしょうか? 終点の少し前で機関車付け替えてまで向きを変え一駅だけ、途中通過駅は二つくらいですが・・・。 あと、昔のあかつき号は本線経由の長崎行きと筑豊線経由の佐世保行きと一部区間は二度やってくる形になってたのですか?
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- FEX2053
- ベストアンサー率37% (7991/21371)
その「佐世保行きのあかつき号」に乗ったことがあります。 ほぼ満席で発車して、小倉あたりでそれなりに下車した後、直方・飯塚でも1/3位は降りてしまいました。後は佐賀と有田で結構降りた記憶がありますが、定員の1/4くらいは佐世保まで行きましたね。 早岐は降りてみれば分かりますが「鉄道の街」でして、米原や鳥栖と同じ「鉄道が来なければただの田舎」という感じの街だったんですよ。やっぱり「佐世保行き」は「佐世保行き」なんで、早岐で降りるお客は少なかった記憶があります。
- pharmacien
- ベストアンサー率17% (17/98)
旧軍港であった呉(広島)と,佐世保を結ぶ急行列車(1等車付)が 40年くらい前まではありましたよ. さすがに,船よりは速かったんでしょう.
- kuni-chan
- ベストアンサー率22% (678/3074)
佐世保は海上自衛隊にとって重要な場所です。 自衛隊関係者はもちろん、都市の規模からして多くの人が移動します。早岐折り返しより佐世保折り返しの方が便利なのは明らかです。 友人が「さくら」に乗って東京へ向かった時、海上自衛隊の隊員で満員だったそうです。かつては需要があったと思います。 これは有名な話ですが、早岐で進行方向が変わる為に機関車を付け替える必要があります。その時間を節約する為に、C11蒸気機関車を反対側に付け早岐-佐世保という短い区間ですが蒸気機関車が先頭に走る事が話題になりました。
- kuma-gorou
- ベストアンサー率28% (2474/8746)
昭和40年台の前半(1960年台後半)、後藤寺(現、田川後藤寺)に機関区が有って9600等の古い釜が集結していたので、撮影の為、週末を利用して、関西から、急行天草を良く利用しましたね。勿論、当時は3段式の寝台車でしたが、・・・ と言う事で、筑豊本線を経由していた本州直通急行・特急列車を調べてみると、 ・急行「阿蘇」(1950-1961年) ・急行「天草」(1961-1975年) ・特急「みどり」(1965-1967年) ・特急「いそかぜ」(1967-1968年) ・特急「かもめ」(1968-1975年) ・寝台特急「明星」(1975-1978年) ・寝台特急「あかつき」(1978-1985年) があります。 当時、天草でも、直方・飯塚では其れなりに降車客が有りましたから、単に面子だけで走らせていたのではないと思いますよ。
- pae2007
- ベストアンサー率21% (18/83)
列車を佐世保終着にするためには線路配線上早岐でスイッチバックする必要がありました。早岐・佐世保間は進行方向が逆になります。早岐どまりにしておくと佐世保に行きたい客が乗換えを強いられますのでこのような運転系統になりました。寝台特急さくら号の早岐乗降客は佐世保乗降客に比べればはるかに少ない人数です。佐世保についた後すぐに回送となり、早岐客車区に戻って係留線に入っていました。 あかつき号の本線経由と筑豊経由の編成は一部区間(原田・肥前山口間)を時間差をおいて雁行して走っていました。同一名で行き先の異なる列車が時間差をおいて走っていたことになります。筑豊本線に特急を走らせているという面子だけのために残っていたような列車です。あえて一部編成を筑豊本線回りにしなければならない理由も無かったわけですが、本線に優等列車が走っていないのでは本線の面子にかかわるということで、わざわざ乗客の少ない、大阪からの佐世保編成を遠回りさせてまで筑豊本線を通していたものです。この当時筑豊本線を走る唯一の優等列車でした。
- sss457180
- ベストアンサー率34% (398/1162)
早岐止まりじゃ意味ないでしょう。佐世保まで直通させてなんぼのものじゃ ないでしょうか。電車、客車の区別なくね。 >昔のあかつき号 そのとおりです。たしか西村京太郎のトラベルミステリー小説でのトリックにも 使われてましたよね。