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創価学会では宗教の正邪の判断をするのに「文証(証文)」「理証(道理)」

創価学会では宗教の正邪の判断をするのに「文証(証文)」「理証(道理)」「「現証」の、三証というものがあるそうですが。 その内の文証は、宗教上の教義・主張が、経文等の文献上の裏付けをもっているかどうかという基準。 だそうですが、そうなりますと照らす経文等の文献がなぜ正しいのかが判りません。 それを書いた人 の言う事が正しいと判断される理由はなんでしょうか?

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  • jameseuk
  • ベストアンサー率17% (48/277)
回答No.5

本当そうですね!私も人でなく経典だと思いますよ。哲学と言うのかな?所詮人から人に伝わって行くものら矛盾は当たり前だと思ってますが又それを論じていくのが醍醐味ではないかな?その面から考えると創価学会の方に是非回答に加わって頂けると愉しくなりそう(不謹慎な表現で申し訳ない)ですよね☆

nob002
質問者

お礼

ご回答有り難う御座います。  団体内での論議はある範囲に限界を置いているのでは? 本来、宗教は無限、宇宙に関する成り立ちを理解して人々のお役にたてると言った趣旨のものではと思っておりますが、従って限界内での活動、論議、では宗教を語れないのでは、、、 限界を作ってあるのは団体内で大人物が出ては困るのでしょう。

その他の回答 (11)

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1854/6060)
回答No.1

もう、それがドグマというものなんですよ。 「何故その経典が正しいとわかるんですか?」「何故なら経典にそう書いてあるからです」 論理学的には自己の正誤については言及するのは無意味なんですけどね。 宗教には必ずそういった独善的な一面があります。 と言うか 相対的な正義や価値観ではなくて、教義に則った正義や価値観があるからこその宗教です。 それが無かったら道徳研究会とか倫理研究会です。 と、いうわけで経文等の文献の正しさが教義的観点から主張されるときには外部の世界では意味が無いということになりますね。 まあそういった内輪だけの正義、宗教そのものにもそれなりの意味や価値はあると私は考えますが。

nob002
質問者

お礼

ご回答有り難う御座いました。 そうですか、それでは信者自身の考えはそこには 存在しませんね。 言われたまを信じている。 それでは真理の追求は信じる事で、 ストップしていると言わざるをえない。  まさに信じる事が進もうとしている道 の障壁になっていると言う気がします。  信じるは諸刃の剣ですね。 教えがたとえ真実であっても、それを信じるだけでは得た事にはならない。 真実を知らないでただ信じているんですね。 それだったら、信じない人と変わり がないですね。 どちらも知らない事には変わりがないからって感じです。

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