お爺ちゃんお婆ちゃんの思い出話
ご自分のお爺ちゃん・お婆ちゃんの、苦労話や思い出話など、どんな面白い話を聞いたことありますか?
(以下駄文)
・・・父方の祖母104歳で健在なんですが、学が無いので話の内容が今イチわからず、百寿のお祝いの時にイトコが本格的に聞き取りしました。
前橋の裕福な米問屋に生まれたが、親の決めた相手ではなく「恋愛」の末の子だったため出産後家を出され母親とも引き離される。6歳の時にばあやと共に商家に里子に出されて、そこで大事に育てられるが主人の他界で店を畳み、8歳でそのまた実家である現在の家の場所へ。
ろくに学校へも行かせてもらえず台所仕事・畑仕事・桑摘み・草刈り・風呂の水汲みなどキツイ仕事を続ける。そのころ元の米問屋ではお婆ちゃんの行方を必死に探すが見つからなかった。(どんな経緯かわからないが実の母親と再会、しかし後ろ姿を見ただけ。)16歳の時に実の父親とようやく再開することが出来、時々お小遣いをもらうようになり、帰って来るように言われたがそこでの生活に慣れたお婆ちゃんは帰らなかった。
血の繋がらない子供たちを育て、血の繋がらない親を看取り、その家の子であったお爺ちゃんと悩んだ末結婚。生まれた長女は病気になり医者に診せるお金が無くて死なせてしまうが、5人の子を育てあげる。お婆ちゃんに言わせると「おしん」なんか苦労のうちではないそうです。
・・・母方の祖父、生前はよくバイクで遊びに来たけど、フガフガ言ってて何言ってるか分からなかった。母から聞いた話。中島飛行機で軍用機を作っていたんだけど、空襲で焼かれるたびに日本各地の工場を祖母と渡り歩いたので、叔父や叔母たちが生まれた場所はバラバラ。どうせ死ぬなら故郷でと、前橋に戻ったところで終戦。カスリン台風当日、1階が浸水して2階で私の母が生まれたので、法事なんかの時に年寄りたちから母は「おい、大水!」と呼ばれてます。
・・・行きつけの美容院のマスターのお爺ちゃん。空母赤城で甲板作業員をやってたそうです。(映画「永遠の0」に出てきた空母です。)幸いミッドウェー海戦の時は乗っておらず助かった。ヒマな時は赤城の甲板で仲間とテニスをして遊んでいたらしいと、先日聞きました。ググっても出て来ないので貴重な話かなとw
お礼
ありがとうございます。 とても常識的な良いご回答だと思います。