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生きたい

ここ数年、精神状態が定まらず入院も考えなければ・・・という時期もありました。 今年、上の娘が幼稚園を無事卒園します。 娘には迷惑ばかりかけて、大事な幼少期にさびしい思いばかりさせてしまったことを、今更ながら後悔しています。 しかし、幼い娘なりに悲しいかな私の病気のことを理解(?)しようとしている姿が健気に思えてしかたがありません。 大きな波小さな波はいったりきたりありますが、それでもなんとか自分のペースで子供を送り出し、家事をして食事をして、子供と散歩に出掛けるなどできるようになりました。 ふつうのお母さんが日々当たり前にしていることが、私は何年もたってからできるようになりました。 自分の病気は生涯にわたって経過を見ていかなければならないことも不安だし、いやにもなりますが、ようやく人間らしくというか 女性として、母として、妻として・・・ちゃんと「生きたい」と強く思うようになりました。 この思いが「躁転」のきっかけでないのを願っていますが、とにかく 女性らしく生きたいです。 いったい何から始めたらよいのでしょうか。 もう何年も醜い自分を直視したくなくて鏡もしっかり見てないし、体重も見ないふり。 この気持ちを維持するために、何をしていけばよいでしょうか。 馬鹿な質問ですみません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • miomu-om
  • ベストアンサー率52% (57/109)
回答No.2

質問者様と自分が重なり、書き込みさせて頂きます。 私は鬱病になって 8年目に入りました。発病当時、息子は小学校低学年でした。でも 私の病気を彼なりに理解してくれ、今では私の扱いが一番上手くなりました。 でも、病気になってからというもの 全く旅行や遠出も出来ず、おまけに取り乱した姿も見せてしまったこともあります。 こんな母親で申し訳無い…そんな思いが頭の中で毎日グルグルしていました。 ただ 心掛けていたことは「息子を笑顔で学校に送り出し 笑顔で迎える」ということです。そして 具合が悪くて横になりながらでも 息子の話を聞くことでした。 質問者様は今まで 充分に頑張って来られてきたと思います。楽しいことは、少~しずつ 少~しずつ 見つかると思います。 お嬢さんが 小学校に御入学されれば、もしかしたら 楽しいお話を運んで来てくれるかも知れませんよ^-^ 私たちは ほんの些細なことでも、人の数倍喜びを感じられるのです。 私は 正確には躁鬱病なので、一生のお付き合いになると思います。これからも 大波 小波が来ると思いますが、私も小さな幸せを見逃さない様に生きて行きたいです。 答えになっていなくてすみません m(__)m

jinno39
質問者

お礼

ありがとうございます。私も躁鬱病です。医師からうつ病ではなく躁鬱病と聞いた時は絶望感でいっぱいになりました。 今までも投げ出していなくなりたいと何度も思いましたが、子供たちのおかげで、引っ張りあげてもらったような気持ちです。 また、私のこの病気に関して、理解がなかなか得られなかった義父母、夫、両親にもたくさん助けられてここまでくることができました。 一進一退、悔しい気持ちに押し潰されそうな時期もありますが、日々穏やかに家族と過ごせていることに『感謝』して生きていきたいです。

その他の回答 (2)

回答No.3

人間を学ぶと言う事は如何でしょうか?人間は愚かなところが在ります、意識を集中させ過ぎると、何もしない方がよいかもしれない事に気が付きます。例えば話す事に意識を集中させすぎた場合には、話が出来なくなる場合があるという意味になります。口に意識を集中させすぎた場合に「吃音」という事になる場合です。 書く事に意識を集中させ過ぎた場合が、「書痙」という事になります。気分を大事にして気分をよくさせようという試みが「感情障害」の元になっています。人に会うときに完璧であろうとした場合に「対人恐怖」という事になります。 眠ることに意識を集中させた場合に「不眠症」という事になります。それぞれの症状はその人の意識が創っているということになります。人間にはそういうところが在ると言う事です。 口を忘れて話が出来た時に「吃音」は治っています。手が書くことを忘れた時に「書痙」は治っています。感情や気分に左右されないと言う事、或いは目の前の出来事が、今言ったことよりも大事になった時に、感情や気分などのあり方を忘れている時に、気分は良くなっています。 心が自分の気分や感情の事を忘れた時に、気分は一番良くなっています。忘れてしまう事が、症状に対して一番良い事になります。その忘れられない事が「症状」を作って、固定させています。 この事を学ぶ事が大事となります。この事とは「症状」を受け入れると言う事になります。受け入れられない事が「意識に上ってくる」と言う現象を作っていると言う事です。症状を受け入れると言う事は「症状」は誰にでも在ると言うことが分かっていない事によります。 誰の心も皆同じくなっています。処が「症状」にまで拡大して苦しむと言う事は、ただ自分が、意識をしてその意識をした事にこだわっていることによります。そのこだわりが解けた時が治る時と言えます。そのこだわりをとくと言う事は、忘れた時の事です。 欲しがっている時には手に、入らない。全てを捨てた時に、全てが手に出来る。と言う原則が人生にはあります。捨てる事、こだわりを捨てる事が大事となります。言い方を替えたなら、欲しがらないと言う事です。欲しがらないで手にするということを学んで下さい。 その始めが「症状」を治そうとしない事です。症状に一喜一憂しない事です。症状が良くなろうが、悪くなろうが、その事に自分の重心を置かないようにすることです。症状を相手にしなくなった時に症状が気にならなくなるからです。「症状」に振り回されない人間性に成長した時に貴方は症状を忘れています。忘れるようになった時に「完治」した事を貴方は知る事が出来ると思います。 簡単に言うならば、毎日ただやるべき事を、「症状」よりも優先にして、只、淡々とやってゆくという事になります。単調な生活の繰り返しを、疑いも無くやって行けた時に、症状は妄想であった事に気が付くはずです。

jinno39
質問者

お礼

ありがとうございます。 〉毎日ただやるべき事を、「症状」よりも優先にして、只、淡々とやってゆくという事になります。単調な生活の繰り返しを、疑いも無くやって… 私も思います。どこか治療している、薬を飲んでる…という自分に甘えているのではないかという思いがあります。 いっそ薬なんかのまなくてあるがままに過ごしたら…などと思う反面、どこか不安。 時々、何もかもすっかり忘れて過ごしてるときがあります。 そのときのような満ち足りた気持ちをいつも忘れないでいたいです。

  • megu_7
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回答No.1

娘様のご卒園、おめでとうございます。 これまでの自分自身を冷静に振り返り、そして何より、お子様に対して感じていらっしゃる思い・・・。 母親として十分優しい思いが伝わってきます。 何をもって「ふつうのお母さん」なのか・・・ いつも明るく元気な近所の奥さん。 でも、あなたが知っているのは、その女性のほんの一部にすぎません。 家に入れば、みな色んな悩みを持ち、時間に追われて生活されている・・・のではないかと思います。 例えゆっくりでも、少しずつ精神面の安定が図れれば、それで良いのではないでしょうか。 「女性として」「母として」「妻として」 私もよく「○○として」という考え方をしては、自分で自分を苦しめてしまう性格です。 >いったい何から始めたらよいのでしょうか。 何も難しい事を始める必要なんてないでしょう。 あなた自身が「幸せ」「楽しい」と思える毎日を過ごすこと。 他者にも自分にも・・・多くを望まず、現状にまずは感謝しましょ。 毎日ウキウキ過ごしているお母さんの姿、きっとお子様にとっても嬉しいでしょう。 まずは笑顔で卒園式に出席してあげてください。 そして卒園された娘さんを、思いっきり抱きしめてあげてください。

jinno39
質問者

お礼

ありがとうございます。 上の子が生まれしばらくして病気になってしまったので、同じとしの子供がたくさんいるような公園にも連れていってあげられなかったし、ご飯作れなくて泣いてばっかだったし…。 娘が幼稚園に通いだし、お手伝いを覚え、弟と世話、料理や掃除機まで…私なんかよりずっとママです。 これからは娘とともに日々穏やかにゆっくりと過ごしたいなと思います。

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