- ベストアンサー
日本人の美意識
オリンピック招致競争でブラジルに負けた、石原東京都知事が、あたかもブラジルに「不正な裏取引があった。」かのような、負け惜しみを言いました。 世界タイトルマッチで負けた、亀田大毅の父親もまた、「本当は、大毅が勝っていた。」と負け惜しみを言ったそうです。 つい少し前の、日本では、国際間の競争で負けた場合、徹底的に強くなって、見返してやる。と考える様な人が、代表になったものだと思います。 石原氏や亀田氏のような、贔屓(ひいき)の引き倒しの様なことしかできない人が、代表になったり、代表そのものにかかわっていたりするのは、違和感があります。 日本人の価値観、価値観というよりも美意識、その様なたぐいのものが、変わってしまった様な気がします。 何がどう変わったのでしょうか? それとも、石原氏や亀田氏の言動に、賛成ですか?
- みんなの回答 (10)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
外国の一面を見、そこを素晴らしいと勘違いしたこと。 自由と言われる面ばかり主張し、その裏に隠れている義務が存在していることを忘れている人が多い。それと同じことと思います。 自分もたまにあることですが、一面だけ見てその反対側を見忘れる。 こういうことの積み重ねで、その感覚を麻痺してしまうのではないでしょうか? たまには立ち止まって、振り返って考えることが必要ではと考えます。 No.7でした。
その他の回答 (9)
日本人の高い精神性は、思考行動パターンの基準が、情緒思考だったからです。世界中で情緒思考は、日本だけです。外国は、アメリカでも、中国でも、思考行動パターンは、論理思考で自己表現です。しかし、今の日本人は、外国の真似をし過ぎて、論理思考で自己表現になっています。だけど、日本の伝統文化、和風文化は、情緒思考文化です、また世界中で日本語の発音だけ、情緒が発生します。この影響で日本人は、情緒思考になりました。だから日本人は、伝統文化を実践して、情緒思考に目覚めて、高い精神性を復活しましょう。新しい時代は、情緒思考の心の時代です。脳の論理思考の時代は終わりました。
お礼
回答ありがとうございます。 あばたの表現方法こそ、 《今の日本人は、外国の真似をし過ぎて、論理思考で自己表現になっています。》 になっているようです。「論理思考」を「観念思考」に置き換えれば、ほぼ完璧の様に思われます。 たとえば、「日本人の高い精神性」と言った場合の《精神性》という言葉が示している内面性と、「新しい時代は、情緒思考の心の時代」の《情緒思考の心》という言葉が示している内面性、とりわけ「精神と心」の使い分けが、曖昧なままだと、あなたの言葉が示している情緒思考そのものを疑わざるを得ません。 もしお時間をいただけるならば、精神性 心 情緒思考 について 人一般の場合の 内面性で 叙述していただけませんか? ぜひ よろしくお願いします。。
- kyoutoukyo
- ベストアンサー率6% (97/1560)
賛成という訳ではありませんが、理解してあげたいとは思います 状況としては負けてはいないけれども、 裏取引……というか、何らかの力が判定を左右することがあります それを言いたかったのでは? ですから「負け」は認めなくてよいので、「力不足」を認めるべきということかな 技術も頭脳も先端に位置する日本人ですが、では何が足りないのか?という観点で考えてみると、石原さんも成長できると思います
お礼
回答ありがとうございます。 《技術も頭脳も先端に位置する日本人》という 認識は正しいかどうか分かりませんが ずいぶん頑張ってきたことは事実だと思います。 しかし それを支えてきた 精神性が 損なわれている様な気がしてならないのです。 ただし、《石原さんも成長できる》という考えには、疑問が多いように思います。
- mizunoe
- ベストアンサー率20% (71/351)
公衆の面前でみっともない、潔さがない。黙って引けば、カッコいいところですが。 勝負は時の運ですから、諦めも肝心。情けない…の一言です。 負けを認め、次に繋ぐための一助にできないのかと。 何が変わったのか。 日本人の美意識が変わったのではないかと感じます。 みっともない…。そういう言葉を口にする人が少なくなったと思います。人の目を気にすることも、他人を気遣うことも。 自分・知り合い/その他=公衆=静物。 …そんなふうに感じます。
お礼
回答ありがとうございます。 たしかに 変わったのでしょう。 では 何がどのように変わったのでしょう。 30年ほど前までは、「洋服」「和服」という言葉がありましたが,今では「服」と「着物」という言葉に置き換えられて、和洋は無くなりました。 20年前ほどまでは、「洋室』「和室」の両方が、建て売り住宅にもマンションにもありましたが、今和室がついているのは、一部の高級住宅だけです。 こういう変化にも 不快感があるのですが 無くしたものの代わりに 得たものがあった筈です。 服ならば 活動性、家ならば 廉価なこと などなど。 石原や亀田の様な変化によって 日本人は 何を得たのでしょうか。 石原や亀田は 何を得たので あのような日本人になったのでしょうか。 差し支えなければ もう一度 お考えを お示しください。 1~6の方も よろしくお願いします。
負け惜しみを言うというのは、人間なら誰しもすることです。 皆さんも、身近な人から負け惜しみを聞いたことがきっとおありだと思います。 しかし、だからといって公共の電波にのせて 堂々と負け惜しみを言うというのは、ハズカシイ。 >何がどう変わったのでしょうか? おそらくですね、欧米的な習慣が広まって主張しなければ認められない世の中になったからではないでしょうか。 平安時代にはある役職が与えられても、「私にはそれだけの度量がありません」と一旦は断るのが常識だったという話を聞いたことがあります。 しだいに形骸化しはしたのでしょうが、その根本には謙譲を美とする価値観があったことと思います。 しかし、今の世の中、会社である役職が与えられたとして 断ると、「なんだ、ヤル気がないのか」と思われます。 私の友人にとても控えめな人がいて、謙遜してものを言う人がいます。 その友人が愚痴っていました。 「謙遜して言ってるだけなのに、本当にそうだと思われる!」と。 ただ、かつてのオリンピックで柔道の篠原さんがミスジャッジで金メダルを逃がしたとき 「自分が弱いから負けた」と言ったのはやりすぎと思いました。 ミスジャッジなのだから抗議するべきと思いました。 またフィギュアスケートの今の採点システムもなんだかな、と思います。 なんで回転不足だったらダウングレードされてその上減点? 単純に減点だけでいいと思うんですけどね? 連盟が抗議するべきと思います。 だけど、そんな採点システムの中でも頑張ってる日本の選手には頭がさがりますww。
お礼
回答ありがとうございます。 《おそらくですね、欧米的な習慣が広まって主張しなければ認められない世の中になったからではないでしょうか。》 たしかに こういう傾向は強いものと思います。 しかし こういう傾向は 指導的な立場でなく 人から評価される 下位の立場の人の 在り方と 思うのです。 指導的な立場の人の在り方ではない そういう気持ちがあって 設問させていただきました。 篠原さんの件も 嘉納治五郎盃よりも 階級別選手権の オリンピックに 心動かす人々がおかしいように思いますし、 フィギアにしても 日韓選手権=世界王者決定 がつづくと 世界選手権 そのものが 無くなってしまうでしょうから なかなか 難しいとは思います。 《そんな採点システムの中でも頑張ってる日本の選手には頭がさがります》 本当に頭が下がります。
- ?橋 昌也(@fudousin)
- ベストアンサー率21% (138/631)
私は個人的に石原知事のような三文文士は嫌いですが。 あの発言は全うだし、リオを批判したわけでも、裏取引があったとも言ってませんよね。 プレゼンや立候補都市の環境等だけで、決定されるものではないと言う適切な反省です。その部分が日本は苦手だという。 まあ、自民党の派閥抗争に例えたのはいただけなかったが、、、 それと、そういうものだと言うことを知らずに招致活動してきたというのも、今更なにを寝ぼけたこといってんだとも思いましたが。 外交力学だとか国益だ国策だと言うわりには、無為無策なまさに三文文士に過ぎない本性をあらわしたにすぎません。
お礼
回答ありがとうございます。 三文文士だから もともと 期待できないし しない ということですね。 作家としても低レベルで その上 政治家としても 低能ということになります。 低能を選んだ都民が 低能なんでしょうか? それとも 今回の招致活動に関する限っていえば 低能しか 政治家に成れないんでしょうか?
そういう人は昔からそうだったと思いますし、 昔からそういう人が表にたってやっていたと思いますが、 そういうのをみっともないと思える風に、 みんなの意識が変わったということではないでしょうか。 オリンピックに関しては、 「あんたが先頭に立っていたから盛り上がらなかったんだ」 と思いますし、 亀親については 「本当は・・・」を口にする資格ないでしょ。 と思います。 親心としてはあれで正しいと思いますよ。 いつでもうちの子がかわいい。。
お礼
回答ありがとうございます。 《そういう人は昔からそうだったと思います》 石原と亀田親は そうかも知れませんが 《昔からそういう人が表にたってやっていたと思います》 とは 思えなかったので 質問したつもりだったのです。 たしかに、 《オリンピックに関しては、 「あんたが先頭に立っていたから盛り上がらなかったんだ」 と思いますし、 亀親については 「本当は・・・」を口にする資格ないでしょ。 と思います。》 同感です。 しかし、ということなんです。
なにじんだろうとそういう人はどこにでもいると思いますが、確かに日本人には「引くに引けない瞬間」っていうのがたくさんあるように感じます。 歴史を振り返っても。
お礼
回答ありがとうございます。 「引くに引けない瞬間」はあるでしょう。 しかし その瞬間に 吐く言葉が 違う様な気がしたんです。 石原や亀田の様な言動を言える人々には エネルギーの集積が ままならないと思います。 再チャレンジする 機会を減らしている だけの様な気がするのです。
- takuranke
- ベストアンサー率31% (3923/12455)
道徳観念が無くなったのと謙譲の美意識が欠如したことでは無いでしょうか。 どんな個人意見でも主張することが、正しいと考える人が多く、テレビなどで、誰はばかることも無く、そのような言葉を披露するのが両者ではないかと考えます。
お礼
回答ありがとうございます。 「道徳観念が無くなったのと謙譲の美意識が欠如した」 同感です。 しかし どうして そういう種類のものが無くなったままなのでしょう。 無くなったら 何かが生まれるものの筈 だと考えます。 そういう意味で 代わりに生まれたものが 「どんな個人意見でも主張することが、正しいと考える人が多く、テレビなどで、誰はばかることも無く、そのような言葉を披露する」ことなのでしょうか。 経済の法則の一つに「悪貨は良貨を駆遂する」(グレシャムの法則)という言葉がありますが 精神性も 同じ力学が働いているものなのでしょうか?
- myeyesonly
- ベストアンサー率36% (3818/10368)
こんにちは。 近頃流行の「モンスター」の一種ではないでしょうか。 この両者に関して共通して言えるのは、「わがまま放題」って事じゃないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 「モンスター」 たしかに なるほど とは思いますが その共通性が「わがまま放題」では この国も 終わり かなと 思わざるを得ません。 亀田親はともかく 石原は 一地方の知事ながら 今回は 国の代表者ですから。
お礼
早速のご回答 ありがとうございます。 《一面だけ見てその反対側を見忘れる》 確かに多いですよね、 《たまには立ち止まって、振り返って考える》 私個人としても 身につまされます 肝に命じます。 日本の場合、鎖国時代があったからでしょうか、この百五十年 欧米化ばっかりだった様な気がします。 文部省検定の音楽教科書では、弦楽器は西洋のクラシック音楽に使われるヴァイオリンなどを指していて、三味線や琴などは、その他の民族楽器というジャンルだったそうです。 もちろん 日本の文部省ですけれど。 これが 文部省検定の教科書で 西暦2000年から 三味線なども ヴァイオリンと同じ 弦楽器に分類されたのだそうです。 たったこれだけのことに 100年以上もかかるようでは 後の祭り に 後悔先に立たず に なってしまいかねません。