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「やっぱり○○の演奏は違う」と言うような事に違和感を感じます。
僕は10代後半、クラシックを聞くようになって約半年、いわば初心者です。 僕はインターネットでクラシック関係の掲示板やチャットを時々見るのですが、チャットで「やっぱり○○の演奏は違う」などと言っているのを見ました。 「この人のこの曲のレコードは名演だ」などと言うなら分かるのですが、生演奏なら同じ人が同じ曲を演奏しても、演奏するたびに音の強弱や速さなど、表現する方法を大きく変えるかもしれないし、その試みが毎回"抜群"とも限らないと思うのです。 そう考えると、ある人の演奏の度に「やっぱり○○の演奏は違う」と言うような事に違和感を感じます。 「名前だけで選んでいるんじゃないのか?」と思ってしまうのです。 漠然とした質問になってしまいますが、 「○○の演奏は(常に)すばらしい!」などと言う凝り固まった考えはあまり良くないと思うのですが、皆様はどう思いますか?
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日本のクラシックファンには、ブランドものを買いあさるおばちゃんたちと、変わりない人が多いので、あなたの様に、不快な印象を持たれるのも、やむを得ません。 彼らもおばちゃんたちと全く同じように、自分の感性に疑いを持っていません。疑う能力の無いことも、厚かましいことも、まったく同じですから、始末に負えませんが、現実は現実として、そういった人がたくさんいることを受け容れざるを得ないでしょう。 しかし、そういう彼らも言う、「やっぱり○○の演奏は違う」という言葉の中には、あなたが指摘している、 《生演奏なら同じ人が同じ曲を演奏しても、演奏するたびに音の強弱や速さなど、表現する方法を大きく変えるかもしれないし、その試みが毎回"抜群"とも限らないと思うのです。》 ということ以外の事実も含まれているような気がします。 すなわち、誰もが知っている様な、著名な演奏家の場合、ほとんどの人が、毎日休みなく、ものすごい練習量をこなしています。 高名な演奏家であればあるほど、持って生まれた豊かな才能ばかりでなく、おびただしい量の練習をしているのです。 その結果、著名なプロたちは皆、演奏会の度に、良い演奏をしているのです。 あなたが指摘している《演奏するたびに音の強弱や速さなど、表現する方法を大きく変えるかもしれないし、その試みが毎回"抜群"とも限らないと思うのです。》のようなことは、毎日の練習の中でこなしており、観客のいる場所では、決して試し演奏の様なことはしません。 常に素晴らしい演奏ができるから、プロと言われているのであって、たまに良い演奏をする人は、アマチュアの最高峰ではあっても、プロではありません。 クラシック音楽のプロとアマとの間には、いつも優勝戦線に顔を出すモンゴル出身の横綱と、勝ち越しすらままならない日本の大関以上の差があるように思います。 もっとも、日本のプロと欧米のプロとの間には、横綱と大関ほどではありませんが、平均すれば一定の差があるように思います。 しょせん、欧州地方のローカルミュージックですから 仕方ありません。
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- Drtake
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ん~~~、まぁ、いいでしょうw確かに、杓子定規に考えれば、絶対というのはないでしょう。でも、たとえば、誰それの大家と呼ばれる人がいます。その人の評価は、それまでのキャリアにつけられたものです。でも、毎回、演奏が万全の状態で、できるのでしょうか? 答えはNOです。 でも、評価は、よっぽどのことがない限り変わりません。精神でも病むか、老いるかなど理由は限られます。 ほかの回答にホロヴィッツの例がありますが、だからと言って評価は下がりましたか? そう、それは単に「運が悪かった」だけなのです^^ 欧米の聴衆は、それも十分承知して楽しんでいます^^b だから、僕らも、アクシデントさえ、楽しんで聴けばいいのです^^実際、話のネタになるのは、そういった失敗話なんですから^^
お礼
なるほど! やはり、いくら有名な人でも失敗はありますよね。 ただ、高い評価を重ねてきたプロとなれば、一度の失敗で評価が失墜すると言うのは考えにくいですね。 それを一時的に悪く言う人も多く居るでしょうが、なんだかんだで楽しんで聴いて行きたいと思いました。 ありがとうございました。
- gldfish
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本当にたくさんの盤を聴く人は、同じ演奏者(指揮者)の録音だったとしても、作曲家単位、曲単位、あるいは全く同じ曲でも盤(録音日)単位でしっかり見て良し悪しを判断していますね。それはもう「そこまで演奏や録音のコンディションばかりに捉われなくても・・」と思える程に。 そもそも、どんなに匠と言われる演奏家(指揮者)・・ベルリンフィルだろうがグールドだろうが、作曲家や曲によって明らかに得意・不得意がありますし、録音時期によって冴えにブレがある事は、少しクラシックをかじっていれば解ります。 「やっぱり○○の演奏は違う」等と言っているクラシックファンは自分はお目にかかった事は無いですが、たぶんそういう人は音楽経験かなり浅めな人か、でなければ見る目の乏しい人なのではないかと思います。
お礼
録音日単位とは・・・! その日ごとに演奏がわずかに違うからこそ、こだわるのでしょうね。 その人物の演奏が常に抜群だと考えていれば、そこまでこだわらないだろうと思いました。(どの日の演奏も抜群なのですから) 聴き手のこだわりが、他のジャンルとは全く違うなあと思いました。 ありがとうございました。
質問者の感覚は極めて正しいと思います。 「この人の演奏は・・・」と神様のように言うのは、日本の音楽評論家に多いようですが、「権威」を異常に重んじる日本特有の現象ではないでしょうか。特に、日本に滅多に来ない「長老」あるいは既に来ることが不可能な物故者をありがたがる傾向が強いようです。「コンクール」を重んじるのも、同じ根っこかもしれません。要するに、自分の見識眼ではなく、確立した権威に頼っておけば安全という発想。 特に、日本では、音楽評論家は音楽界、音楽産業とのコネでビジネスが成り立っているので、そういったビジネス(CD売上やCD解説執筆、雑誌・新聞記事依頼とか)を意識した評論・批評が多いと思います。それを信じるか否かは、聴く側の自分の耳と、その評論家の普段の言動の信憑性・公平性で判断するしかありません。 その昔、幻のピアニストのホロヴィッツが初来日したとき、とてつもない金額を払って聴きに行ったところ、ひどい演奏だったとか。これをありがたがった人、「ひびの入った骨董品」と批評した方、がっかりした方いろいろあるようです。その後故郷ロシアに何十年ぶりに里帰りして演奏し、これが素晴らしい演奏だったので、「日本の聴衆は損をした」と評論されたとか。ホロヴィッツが東洋の辺境国日本でどの程度本気を出したのかは不明ですが、大家の演奏とて、そういう当たりはずれがあるものだと思います。(見知らぬ東洋人の国と自分の故郷とで、本気度が同じとは考えられませんよね) 来日する著名演奏家は、「日本は客が入って儲かるから」とやって来ます。手抜き演奏でも満員・拍手喝采なので、やみつきになるようです。 音楽の感動とは、こういった有名度とは別の次元にあると思います。名もない若手演奏家やアマチュア演奏家でも、ひたむきな演奏には良い演奏も多く、感動します。 良い演奏、感動する演奏(CDも含めて)は、自分の足と耳で探すしかないと思います。評論は、その一つの参考として。
- Drtake
- ベストアンサー率20% (1/5)
777OICHANさんの回答もふまえて、お答えします。たしかに、思い込みや、名前だけで言う人も多いです。しかし、演奏家は、性格、バックボーンなどで、ある程度スタイルが決まってきます。練習や、研究の結果、演奏が変わっても、大幅に変わることはめったにありません。そして、賢明な聞き手は、再生機器の違い、演奏会場の違いなどの条件を頭の中で理解して調整しています^^ そうすると、やはり、その人の「個性」が見えてきますし、すばらしい人は、やはりすばらしい事になるのです。あなたに足りないのは、音楽体験の絶対数ですw ありとあらゆるところで音楽を聴いていってください^^b おのずと答えが出ると思います。byそーやって、深みにハマッたおぢさんよりww
お礼
(駄文である事お詫びしておきます) 大幅に変わると言う事はめったに無いのですね。 よくよく考えれば、確かに、その人の音楽への理解がガラっと変わる事は考えにくいです。 ただ、同じ演奏家でも若い時と晩年とでは違いがあるように、そこに違いがあれば敏感な聞き手ほど「70年代のこの曲はまあまあだけど80年代のコレはなんだ?!」「いや、どちらかといえば僕は80年代のコレの方が好きだね」などと意見が分かれるものだと思います。 演奏家自身も「昔の僕のコレはダメだな」と思う演奏があると思うのです。 再生機器の違い、演奏会場の違いなどから、素晴らしい演奏を素晴らしいと言う、その人は曲をしっかり味わった上で評価しているわけで、僕から言えば聞くプロです。 ただ、この人だから素晴らしい演奏なのだ、と言う思考にはやはり違和感を感じるのですが、いかがでしょうか。
- ishiwaru
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訂正 局→曲
- ishiwaru
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演奏するたびに同じ局の音の強弱や速さなどを大きく変えたら演奏会にならないでしょう。練習してからまたおいでってことになりませんか。
お礼
同じ曲を数日続けて演奏するかは分かりませんが、そのような場合は解釈が急に大きく変わると言う事は無いと思います。 ただ、長い時間で見れば全く違うと言う事はありえるのではないでしょうか。 例えば、若い頃と晩年では同じ曲でも演奏者自身の曲へのイメージが変わるでしょうし、聴く側もその演奏のどちらが好みかが分かれるはずです。 そうすると「これは好きだがこれは嫌い」と言う事が起こると思うのです。 ありがとうございました!
- 777oichan
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貴方の仰るとおりだと思います。クラシックの古典や有名な曲だと初心者でも解かりますし伴奏者やホールの違いでも影響されたりしますから、一概にあの人の演奏は常に素晴らしいとは決して言えませんよね。ブラインドテストで明確に正確に演奏者を特定する事はある程度のレベルの似たような奏者の場合は余程の見識と耳を持った人しか解かりませんよ。評論家でも片寄りや偏見、学閥でブレがありますね。貴方の感性、好み、感動などを信じて音楽を楽しめば良いですよ。他の人が如何思うが勝手ですから、言わせておけば良いだけの事だと思います。貴方の物の見かたは素晴らしいしピユアだと思いますので自信を持って良いですよ。
お礼
ありがとうございます! クラシックは他のジャンルより伝統的な感じがするので、人の名前で演奏を判断するような習慣があるのか、などと考えていました。 とすれば、それについて僕が文句を言うのはおこがましいというもので・・・。 音楽自体はもちろん、演奏者の心境も演奏もその時その時で変わってゆくものなのだと、自信を持つことが出来ました。
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お礼
アマとプロはともかく、プロ同士でもやはり本場の方が勝るのでしょうね。(日本人による邦楽の要素を織り込んだ作品も多くあるのでしょうが・・・) 回答を読ませて頂いてから考えました。 どれだけ練習を積み上げた最高のプロであったとしても、演奏者の曲への解釈そのものが自分に合わなければ、「この人のこれは名演奏だ」と言われる人の演奏も「なんでこれが名演なのだろう?」と思ってしまうのではないでしょうか。 例えば、同じ曲でも勢いがあって派手なスタイルを支援する人も居れば、全体的に勢いを抑えてここぞと言うときに盛り上げるスタイルを支援する人も居て、しかも演奏者自身も曲によってこれを変えるのでしょうから、僕は、自分にとっていい演奏に辿り着くのは本当に大変な事だと思っているのです。 そうするとやはり、ある演奏者ファンの中でも「この人のこの曲は好き、でもこれは嫌いだ」と言うのがあるべきだと言うように思えてしまって、違和感を感じると言うのはあまり変わらないのです・・・。