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躁鬱の気分変動についてアドバイスください。

医者に躁鬱だけど軽いからグレーゾーンと言われました。 一番酷いのは気分の落差で、モヤモヤが解決すると、万能感を感じて作業がはかどります。 躁のときは自意識気味な過信が万能感と丁度いいバランスになってうまく働きますが、悩んでるときは過信が重荷に変わります。 あまりに自分ができる人間だと思いこんでることが原因だと思うのですが、どう心がければ精神的に正常なバランスでいられるかアドバイスください。

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回答No.4

今日の朝に書いたのですが、コンピューターが不調のために回答寸前で固まってしまいました。遅くなりましたが書いてみます。 仏教の考え方と言う事ですのでその事について書いてみます。仏教の経典は数え切れないほどあるようですが、しょせん言葉遊びと思います。インドの言葉を中国語に翻訳して、その中国語を日本語に翻訳してあります。おまけに2,500年も前の事です。正確に伝わっていないと思います。日本語でさえも、500年1,000年前の言葉は今の人は分かりません。 仏教を専門に習った事は有りません。禅も専門に学んだ事は有りません。ましてキリスト教などは通常生きていた場合に目に止まるものを目にする程度です。是と云った宗教にも属している訳ではありません。只言えるなら、14歳から「死の恐怖」に取りつかれて18年間過ごした経験が有ります。毎日が死刑執行の日と言う思いで365日x18年過ごしたことが有ります。辛い毎日でした。その事は「不安神経症」という事です。 余りの辛さ、生き難さから、28歳に入院森田療法というものを2か月間受けた事が有りました。東京の鈴木知準先生の所です。先生が言うには「ノイローゼは悟りを開かないと治らない。」「ノイローゼの一年は坐禅を10年やった事と同じ。」と言う事で、講和と云う時間が有って、悟りを開いた人の話や、悟りを開いた人の考え方や、道に至ると言う事がどういう事なのか。そういう話が多かったと思います。 それから4年後の事です。自分の自我意識が「自分の無意識の意識」に出会うと言う体験が有りました。この日以来死に対する恐怖がぱったりと消えてしまいました。日記には「今日、無意識の意識に会った」と書きました。それから28年たった60歳になるまで、神経症になった事も、治った事も全て忘れて生きて来た者です。 その経験から貴方に書いています。鈴木診療所の先生の本棚に置いてあった鈴木大拙博士の全集がとてもうらやましいと思いました。退院してからは、機会を見ては鈴木大拙博士の本を買って読んだものです。 そういう事でお薦めは禅と言うものです。是は人間を束縛している者がそれぞれ各人の中に存在している。人間はどうして不安や恐怖の中で不自由な思いで暮らさなければいけないのか?と言う事の根本的な解消方法が書いてあります。その事の説明が今の私には出来るようになりました。その事を交えて人間の不安と言うものを解説してみます。 自我意識が出た時に、或いは自我意識だけで心の調節をしようとする事が精心疾患を作っています。それと同じで自我意識だけで体の具合を調節しようとする事が自律神経失調症や、心身症と言われているもの、或いは難治性の各種の障害です。 例えば神経症には沢山の症状が有ります。ですが原因は実に簡単な事と言えます。心の持ち方が分からなくなってしまった事によります。吃音や書痙や上がり症や対人恐怖などにも言える事です。自我意識が出ないようにする事が出来なくなってしまう事が神経症の原因を作っています。前にも書きましたが、優勝が掛った一打を自我意識が出ないようにして打つ事が分かった時が「悟りを開いた時です。或いは道に至る」と言う言い方でも良いかと思います。 その事の説明です。人間が最高の状態で生きている時の説明に聖書では天国と云う言葉を使っています。天国に一番近い存在は「幼子」と言っています。この事が今言った事に関係しています。仏教では「分別を捨てよ」と言っています。是は同じ事を云っています。幼子には分別が無いからです。 この説明ですが人間は思春期頃に左右の脳の機能分化が完成に近くなります。この頃から人間は悩み始めます。それは二つの脳の機能が全く違っていて、どちらの脳で考えたらよいのかが分からない時期と言えます。この事から人間には深い深刻な悩みが始まる場合が有ります。つまり心の分裂と言う事です。 1981年アメリカの精神生物学者ロジャー・スペリー博士は分割脳に関する発見によりノーベル賞を受賞しました。この分離脳の研究成果の中の一つに左脳には一つの人格が存在している。右脳にもそれとは全く異なった別の人格が存在している。さらに左脳とは、緊張脳といわれ、脳波がβ波と呼ばれる調和のないエネルギーの低い波で作用し、五感(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚)を通して論理的に判断を行うものであるとされています。つまり緊張した意識で物事の判断を下すものです。= (顕在意識)。 一方、右脳はリラックス脳ともいわれ、心身ともリラックスし、緊張のない意識集中状態で、脳波は主としてα波と呼ばれる律動的なエネルギーの高い波において作用します。その働きは直感的であり、統合的、主観的に判断を行う潜在的な能力を持ち合わせ、五感では判断できないものを判断する感性の脳とされています。 この二つの意識の扱い方が分からない事を仏教では「無明」と言っています。自分で自分が分からないと言う事です。お釈迦さまが云った「一切皆苦」とは精神心疾患の事かと思います。お釈迦様は普通の暮らしが出来なくなって精神科医を探して治してもらおうとしたと言う事になります。 健常者は一切皆苦と言う感覚は分からないはずです、処が心を病んだ人には分かります「意識をすること自体が苦の元になっている」と云う事実の事です。その事の解決方法を見つけたのです。それが「悟り」です。それは悩ませられている自我意識が、悩ませている仏性と出会うと言う意味ですが、もう少し分かりやすく言うならば。 健常者は自我意識と仏性とうまく付き合いが出来ています。仏性は分かり難い事ですが自我意識と交互に自分を支配しています。無意識界を統括していると言う言い方でも良いと思います。没我の時に自分の心も体も支配している者です。仏性は体の機能も司っています。つまり心臓も脈拍も自在に出来ると言う機能を持っています。言い方を替えたなら命の働きそのものと言う言い方も出来る筈です。 人間は意識をした方が良い時には意識をして、没我の方がうまくゆく時は没我になっています。処が障害が出たと言う時は没我になれなくなってしまいます。つまり「意識のし過ぎ」をするという事になります。この事から自我意識は大変になる場合が有ります。 今言った事と宗教が生まれる原因が同じと言う事になります。それは自我意識が意識のし過ぎで、没我になれなくなった事が原因しています。もう一つの意識と相談し合ってうまくいっていたものがバランスを崩したという結果になるからです。そのバランスを元のバランスに戻そうと言う働きかけが右脳からのメッセージと言う事になります。それが「罪悪感であり漠然とした不安」と言う事になります。 この自我意識への圧迫感をキリスト教では「原罪」仏教では「業」と呼んでいます。不安になり易い人は自分自身に敏感と言う言い方が出来ます。 人間が心の持ち方を忘れてしまう事が心の病の原因と言う事になります。それが不安の元になっています。その事の解消方法が「禅」と言う事になります。人間の不安は心の持ち方を忘れてしまった事によります。或いは言葉を替えたなら割り切れない矛盾だらけの問題を自我意識に振り向けたと言う事になります。自我意識の出来る機能は割り切れる事が前提条件としてあるからです。 分別できることしか出来ないと言う事は、分かり切ったことしか出来ないと言う事になります。割り切れる問題とは有限に属していると言う意味になります。従って左脳の機能は有限の命の働きと言う事になります。もっと言うならば永遠は機能の問題からして、理解出来ないと言う事になります。 人間の苦しみとは、左脳の自我意識に割り切れない問題が割り込んできたという事になります。心の矛盾と言う観点から言うならば、有限の身に永遠が覆いかぶさろうとしてその手がさえぎられてしまう事とも云えます。是が心の矛盾の正体であり。不安や恐怖の正体です。 自我意識が折れた時に、永遠の命が自我意識を包み込みます。是が悟りです。自我意識は「今まで大事にしてきた事は余り大事では無かった」と気が付きます。自分の命でさえも余り大事なものでは無かった、或いは自分の肉体の死は本当の意味での死では無い事が分かります。その事が「生死の問題が解決した」と云います。自分は元々永遠の存在であり、生死には左右されない存在であった事に気が付くからです。 それは他の言い方をするなら、自分の中には外界と一体になって働いているものが存在していると言う事が分かる、と言う事になります。 今までは「それ」と自分を比べた場合に、自分を大事に生きていました、その考え方では苦しみが大きくなってしまった。自分は余り大事では無いと気が付いて、自分よりも「それ」を上位において「それ」に従うと言う生き方になってしまう。と言う事になります。その生き方とは「神の御心のままに」他の言葉で言うならば絶対肯定と言う足場の上に立ったと言う事になります。 一度その直通ラインが出来たなら、そのラインは閉じる事は有りません。その直通ラインを通じさせようと言う方法が禅と言う事になります。左脳の機能だけでは生活が成り立たない事が分かった。右脳の意識の登場を促す方法が禅と言う事になります。禅問答は左脳の自我意識では解く事は出来ません。 禅問答は左脳の機能では解けないように工夫されているものです。それは恰も、悩みの解決に自我意識で立ち向かっているのと同じ事です。左脳の機能では不可能と分かった時に、右脳の意識仏性が出てきて問題を説いてくれます。 仏教の考え方は、鈴木大拙博士の本で学ぶ事をお勧めします。大変に膨大な数が有ります。初心者向けから、専門家向けのものまであります。その中から気が向いたものを手に取ってください。

noname#171468
noname#171468
回答No.3

気分障害はPTSD有るので大きな情動は何時でもあります、鬱そう状態など・・・・  一時期安定剤で投薬管理されましたけど、切りが無いから自分の気分と思い付き合う事で納得させて居ます。  人間生きて居るから気分の波は来て当然と思う事では無理ですか?  PTSDですので、大波で来ますけどね。  墜ちるなら奈落です、躁状態なら頭の中お花畑満開くらいにハイになるので、自分で自分が分かる様になればしめた物ですけど・・・・  自己管理(セルフコントロールも時間と共に慣れも来ます)に尽きますけど・・・・

  • nemoax006
  • ベストアンサー率14% (343/2433)
回答No.2

躁鬱病のものですがリーマスが躁にもうつにも効きます。軽躁の場合これで躁の発現が消えます。残りは鬱だけなので抗鬱薬を併用します。

回答No.1

抜け出す方法或いは考え方は二つ在ります。 一つ目は-気分に左右されない人間に成長する事です。誰もが厳密に言うならば、気分の浮き沈みが有ります。貴方の場合にはその事を過大評価をしてその評価に浮き沈みしているだけに感じられます。 気分が良くなってもとりわけ喜ばないようにして、悪くなっても落ち込みすぎないようにするのはどうでしょうか?何時かは自分の気分に振り回されずに必要な事を必要に応じてやってゆく事が出来るようにするのです。外界の必要な事と、自分の頭の感情と比べないようにする事です。辛い、苦しい、暑い、寒い、こういう事は云ってみたところで自分が云った事に左右されるだけです。辛くても辛いと言わない人間性を身につけるのが良いと思います。、 二つ目は-人間の心を学ぶ事です。或いは心の持ち方と云っても良いです。是には神経症などの心の変化を学ぶ事が役に立つかも知れません。 人間の心は自我意識が感情を抱いて自分を感じています。ですが自我意識には感情を抱かせている、言い方を替えたなら。自我意識に外界の出来事を教えて、シグナルを出してくれているものが存在しています。仏教ではこの事を教えてくれるものが「何であるのかを間違って認識した場合の事を」無明と云って、自分自身が不安を抱かせている事が分からない事の事例として挙げています。 人間の心は分かり難く出来ています。自分の不安を他人に任せようとしています。他人が自分の不安を取り除いてはくれない事を学ぶ事が良いと思います。自分自身の心の専門家はやはり自分自身です。24時間一緒にいるからです。 心の持ち方が神経症になったり、治ったりします。簡単に説明してみますので、後は自分で学ぶ事をお勧めします。 人間は「自我意識」が無い時が最高の状態と言えます。自我意識が出た時と出ない時を書いてみますので、自分で考えて下さい。 上がり症が有ります、是は自我意識だけで上がらない工夫をしている状態です。自我意識が出過ぎて困っている状態の事です。 その反対が、優勝が掛ったゴルフの選手が最後の一打を打つ時です。その時に「没我」の状態で打てた方が有利となります。自我意識が「引っ込んだ状態」の事です。 貴方にも言えます。貴方の自我意識が引っこんだ状態で生きてゆくならば、症状らしきものは忘れてしまいます。貴方の場合は優勝が掛った一打を打とうとして、自分をひっこめる事が出来なくなって、打つのに困っている状態の事です。

kikurin3
質問者

お礼

お答えいただき有難うございます。 自我意識ですか。 確かにそれが大きすぎるせいな気がします。目から鱗です。実践していきますね。 仏教の考え方にも興味が沸きました。 再度質問ですみませんが、仏教の考え方は、初心者用の本で勉強できるでしょうか?