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「ホ・オポノポノ」を知っている人だけ読んでください。

先日「ホ・オポノポノ」について書かれてある本を借りてきました。 その中に読んでいるととてもつらく、解るのだけれど理解できない部分があります。 「自分の現実に起こることは100%自分の責任である」 全てのことは過去の記憶から起こっており、 自分の記憶をクリーニングすることで悩みは消去される。 この部分に恐ろしく拒絶感を持ちました。 私は、子どもの頃から大きくなるまで 「世の中におこる全てのことのうち、自分が願わなかった部分について、 悪いことが起こっているのかもしれない。 自分が悪い子だから、世の中も悪くなるのかもしれない。」 そう思っていました。 「自分に起こることの全ては自分のせいだ」とひどく悲観的になっていたのです。 けれども、それは論理的ではない。 そう思いずいぶん楽になったものです。 なのにまた、同じような感覚を呼び覚ます物に巡り会ってしまったのです。 この感覚とはいったい何なのでしょうか。 「ホ・オポノポノ」を知っていて、現実に実行している方。 どうすれば、この心境を乗り越えられるのでしょうか? もし、偶然に「ホ・オポノポノ」を知らずこの質問を読まれた方へ、 非論理的なのかもしれませんが、非論理的なこの気持ちに再度巡り会ったことに対して、 論理性ということで拒絶せず受け入れられる方法があるなら、 受け入れてみたいと思っています。 なので、回答は「ホ・オポノポノ」を知っている方だけに限らせてください。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#194137
noname#194137
回答No.3

私は今現在「ホ・オポノポノ」について、本を読んでいる状態です。まだまだ理解が進まず半信半疑の部分が多いですが、以下のようなコラムを見つけました。結末は意外な方向になりますけど…。なにかの一助になればと思います。

参考URL:
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0906/06/news002.html
noname#128382
質問者

お礼

お礼が遅くなりすみません。 回答ありがとうございました。 URL、非常に参考になりました。 このコラムを書いた方の気持ちはとてもよくわかります。 けれども感謝していくことは大切だと思います。

その他の回答 (2)

noname#92745
noname#92745
回答No.2

No1です。 質問のポイントはわかりました。 おそらく「ホ・オポノポノ」の概念だけではそれに対する悩みは 解決されないと思います。 わたしは精神世界系のことは「ホ・オポノポノ」よりもずっと前に 知っていて質問者さんが抱く疑問には別の形ですでに教えられ 解決していました。ですので、「ホ・オポノポノ」の全部自己責任という 部分にも違和感も、罪悪感も抱くことはありませんでした。 もう当たり前のこととして前提がありましたから。 やはり、この疑問を解決するにはこの世界では大御所となっている ニールさんの神との対話・友情シリーズを読むことをおすすめします。 なぜ苦しまないかという自分也な理由は、 ・この世に被害者は本当にはいない ・自己責任というなら、被害にあっている人それぞれにも当てはまることで、彼らは彼らの意図に従ってその状況を”選択”した ・すべてのことは完璧に完全である(いいも悪いもない) が柱になっています。 そもそも良い・悪いという相対理論はこの世の投影世界の話であって、 本当の世界(わたしが本来存在している領域)においては絶対世界しかない。 悪・善という概念も概念にすぎず、絶対の領域では両者はどちらがすぐれ 劣っている、正しい、間違っているという概念はないからです。 このことが最も自分にとっては啓示のような救いになりました。 すべての苦しみ(と思うもの)は、この二択の相対で成り立っているからです。 すべてがどれも完璧であると受け入れたら、逆に楽になりませんか? また、自分で選択を与えられてるといことは自己の責任で、昨日のニュースで 悲惨に亡くなった人があえてその生を選んで体験しているとしたら、 誰の責任でもなく、もちろんわたしのせいでもありません。 その人にはまた、それを”選択しない”という自由ももちろん 与えられていたんですよ。もちろん、何故その人がその”悲惨”な人生を 選んだかはその人也のそれを体験したいという意図がなければ不可能でも あったんです。絶対的な視点ではその体験は”悲惨”ではありません。 わたしは人の人生のありようを、この3次元世界だけで存在し終わるものでなく、 死をむかえ、絶対の領域まで返るところまで含めた目線で見ています。 と書くと、それでも、これまで自分におこったことを振り返って 酷い経験があったとして、それを選んだつもりも覚えも絶対にない!と 言いたくなるでしょうが、そこでNo1で書いたように、自分には 自分だと思ってる自我と、真の自分の両者が実はいるんですよ、という 話をしました。意図をし、選択を行うのは自我ではありません。 それ故に、人が真の自分の存在というものに気づき、もっと意識的に 自我と切り離していけたら意図と選択が無意識でなく意識的になされるように なるのです。 真の自分というものはつまりは神の一部である自分です。 神はそれを一部でありすべてとも言ってますが、神がこの世の宇宙の あらゆる存在の全て(全てあるというのは無という相対的なものによって 初めてある概念ですので絶対的には全ても無も一緒とされています。 色即是空なんかも一緒です)、その全て(あるいは無)に根源で つながってる万物というのがワンネスなんですよ。昨日のニュースで 悲惨な体験をして亡くなったその人は、実は、わたし(あなた)なんです。 わたしであるあの人がなんらかの意図を持ってその選択をした。 (でもそれは悪いことではない)と、わたしなら突き詰めていけば そう考えます。日々意識的にそう思ってニュース見てるわけでもないですし、 あえて自我のフィルター通して世の中のことを見ているので都合よく 他と自分を分離していますけど。その分離したフィルターの中で 自分の体験、他の体験は切り離し、他人が苦しいことがあるならそれなりに 同情したり共感したりします。フィルターをはずし統合したとしても、 ”自分”がそれを意図的に選択したと、そしてそれは完璧な体験であると 考えます。 望まない体験ならばいくらでも修正ができる、別の選択ができる、 そこに救いと自由が与えられていると思います。

noname#128382
質問者

お礼

お礼が遅くなりすみません。 再度回答いただきありがとうございました。 あれからゆっくり、それらを考え実践していましたが、 どうも自分に自信がなくなっていくばかりでした。 私には向いていないのかもしれません。 ただ、考え方としてはいいと思いますので、 常に感謝の気持ちは持っていきたいと思います。

noname#92745
noname#92745
回答No.1

ハワイの秘宝と銘打って紹介されたレン博士のホ・オポノポノの根源の 考えは特に目新しいものでもなく、すっごく昔から色んな哲学者や 宗教家なんかも考えてきた命題なんですよね。 (まあ、あの4つの言葉を唱えるだけという手軽さが万人受けしたんでしょう) どこかで真理をみつけた(悟った)人が言う共通のことに、 自我と真我の2つの存在が人の中にあるというものです。 仏陀は梵我一如で梵(宇宙を支配する原理)と我(自分)が一体であると 説明しています。 デカルトは「我思うゆえに我あり」と言いました。 (この時の前者の我と後者の我は別のものとみなします) 心理学者ユングもシンクロニシティの研究においてその説明を 潜在意識下での万物とのつながりで同時共鳴現象を科学的に 説明しようとしました。 同じくレン博士は人間の根源は万物一体であるワンネスの思想から 自分を癒せば自分でない(と思える)別の対象物をも癒せると言ったわけです。 非論理的だときめつけるにはあまりに多くの賢人が同じことに いきついてるように思えませんか? >けれども、それは論理的ではない。 そう思いずいぶん楽になったものです。 >なのにまた、同じような感覚を呼び覚ます物に巡り会ってしまったのです。 この感覚とはいったい何なのでしょうか。 その楽になった自分と感覚が呼び覚まされた自分は違う自分なんじゃ ないでしょうか。エックハルト・トールの『ニュー・アース』なんか読むと その辺りの不安感情の仕組みが説明されてる気がします。 つまり、一見論理的なものを肯定しようとする自我(エゴ)とエゴ以外の者の 自己の中での対立構造です。真の自分が実はエゴ以外の存在だと知ってしまったら エゴの存在意義がなくなるのであやゆる不安、拒絶を起こすんだそうです。 >「自分に起こることの全ては自分のせいだ」とひどく悲観的になっていたのです。 この辺りの感覚をつきつめて処理していくには、ニューソート的な 考えに触れてみるのもヒントになるかもしれません。 ニール・ドナルドウォルシュの『神との対話』『神との友情』には 一応”神様”からのその問題に対する答えが述べられています。 読んで受け入れるかどうかは自由ですが。 レン博士の >全てのことは過去の記憶から起こっており、 自分の記憶をクリーニングすることで悩みは消去される。 って二律背反ですよね。絶対に”今”の自分は過去がクリーニングされた ことや書き換わったことはわかるわけもなく。書き換わった過去が ずっと昔から普遍であった事実としか見れないでしょう。 というよりそもそも過去・現在・未来の3次元での時間軸すらないって 言い切ってる人もいますしね。あるのは今のこの瞬間だけで、過去が あったというのは幻想と。(というと、レン博士の記憶だけというのも 同じかもですが) 基本的には過去を正す、というよりもこの今の瞬間を完璧なものとして 捉えるという考えがしっくりきます。そしてその完全な今のこの瞬間は 不完全であったはずの過去の存在もあって成り立つこその今であるなら 過去をクリーニングする必要はないですよね? わたしもすぐに”論理的”ぶるエゴに引き戻されて過去の出来事の”記憶”に 凹みまくりますけど。。。クリーニングしなきゃって思うとすぐに、 不完全さを否定する罠に落ち込んでいくと思います。 公式サイトのクリーニンググッズはちょっと個人的にいただけないですねぇ。 >論理性ということで拒絶せず受け入れられる方法があるなら、 受け入れてみたいと思っています。 う~ん、、、論理的にという段階でエゴに邪魔されそうです。 わたしは、ポノポノの実践は特にしてないですけど、 ごめんなさい 許してください 愛してます ありがとう って言葉全部をひっくるめた言葉にできないものを今に感じるようにしています。 (で、何か特にどうということもないですけどね。。。) 悟ってないのでわたしにも真実はわかりません。お答えにならずすいません。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >同じくレン博士は人間の根源は万物一体であるワンネスの思想から 自分を癒せば自分でない(と思える)別の対象物をも癒せると言ったわけです。 >けれども、それは論理的ではない。 そう思いずいぶん楽になったものです。 >なのにまた、同じような感覚を呼び覚ます物に巡り会ってしまったのです。 この感覚とはいったい何なのでしょうか。 うまく伝えられず、申し訳ありませんという気持ちと、 なぜ、他の人は感じないのだろうかという気持ちが入り交じっています。 私は「自分に起こることの全ては自分のせいだ」とひどく悲観的になっていたのです。 自分に起こる全てのこと、 ・それは自分が生まれてきたこと ・戦争がどこかで起こっている世界に生まれてきたこと ・悲しいニュースが毎日流れる世界に生まれてきたこと ・この世は悲しみに満ちており、そうした世界に生まれてきたこと ・もしかすると宇宙が存在するのも自分の責任なのかもしれなくて・・・ もっとわかりやすく言うと、 ・今でも世の中に核が開発されており、その責任が自分にあるということ ・世界で饑餓がおこるのも、自分の責任だということ ・昨日、流れたニュースは全部自分の責任なわけで 上記のことを思うと苦しくなるのです。 なぜ、「ホ・オポノポノ」を実践している人はこれらのことで苦しまないのでしょうか??? ここで、無意識はつながっているかもしれないが、 つながっていることには、何の根拠もない。 つながっていても、自分の外側は何も変えられない。 そう考えれば、もう少し楽になりますよね。 ただ、現実のものを改善していくだけ、自分ができる小さなことをしていくだけで済みます。 けれども「ホ・オポノポノ」を知ってしまったら、 全てのことに対してクリーニングをしなければならないような気がするのです。 これが苦しくないのが不思議です。