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ありのまま生きる?

よろしくお願いします。 人と話していて、思うことがあります。 私は、ありのままで接していないなと思います。 やっぱり、建前?って言うんですかね。 人と一緒に居るときとありのままは違うと思います。 人と一緒に居ると、その人にのめり込む?って言ったら おかしいですけど、すごい自分を取り繕うじゃないですけど 人と話すときの自分は 「素直」で「笑顔」で「優しく」で「思いやり」で「裏表なさそう」 って感じですね。 でも、ありのままの自分、本当の自分は 「自己中心」「愚痴ばかり言う」「人の悪いところが目につく」 って感じですね。 私は、人にありのままの自分を見せたら よく学校の先生からは「そこが悪い」と言われたので ありのままの自分は好評ではなさそうです。 ありのままで接することができるのは、 家族だけです。 他の人は、ありのままの私を受け入れることができないそうです。 悩みは、雰囲気が「優しそう」「柔らかい」らしいので 言いたいことを言われやすい、とゆか、きついことも言われたりします。そこで言い返せないのが「優しさ」だと言われたり「弱さ」だと言われたりします。 質問は、みなさんは、ありのままで生きてますか? ありのままで生きるってむつかしくないですか? 私がありのままで生きることはできないでしょうか? もし、「ありのままで生きた方がいいよ」と言う方は どうやったら、ありのままを受け入れてもらえるか 参考意見下さい。よろしくお願いします。

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noname#154354
noname#154354
回答No.1

人は、多面性があり、とりつくろうあなたも、とりつくろわないあなたも、どちらも、本当のあなたです。 ありのままとは、ちいさなあかちゃんのように、気に入らなければ泣き出すということではないですよね。 普段は、取りつくろうというか、演じているが、本当は、自分の素を見せて言動したいってことですよね。 わたしは、50歳前ですが、すべて、演じて生きているつもりです。酔っ払って、いるときは、演じきれてなく、あらら・・ってなこともあるのですが、意識があるときは、自分は、いまは、こういう自分を表現したいと思っていきています。 わたしたちの人生は、神様がステージを与えてくれ、そのステージで生きているだけだとおもっています。 人は、一人では生きていけない。支えてもらうこと、支えること、いろいろあると思うが、自分の出番のステージで、どれだけ、演じきれるかだとおもっていきています。 本当の自分は、とりつくろう自分、ええかっこしーをしたがる自分、へこんでいてなぐさめてほしいとおもう自分、同情してほしいと思う自分、すべて、本当の自分だとおもっています。 人は、ロボットではなく、感情をもった生身の生命体なんですもの。

noname#213414
質問者

お礼

全て本当の自分なんですね。 >どれだけ演じきれるか なんかそう思ったらゲームみたいで面白いですね。 「演じる」この考え、もらいますね! 回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • hyuuma8579
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回答No.6

それでいいのです。 家族は社会全体の縮小体ですし、 一人の人間を大切にできるなら、それが=周りを愛することなのです。 愛することをそんなに大袈裟に考えなくてもいいと思いますよ。 家族を愛することが、何より基本中の基本です。 家族を愛することは、あなたにとってはごく普通にできていることに過ぎません。特に立派だと感じていないはずだと思います。 同様に周りを愛することも単なるその延長に過ぎず、特にりっぱなことではないのです。 立派に感じるのだとしたら、今や家族を愛するということすら崩壊していることが多く、 本来普通に、当たり前に出来ていたことが、悲しいかな立派な行為として崇めなければならないほどにできなくなってしまったことを意味するのではなかろうかと感じさせられました。 社会に展開するあらゆる種類の愛・・・友愛、隣人愛、恋愛、師弟愛、敬老心、自然保護、動物愛護、愛校心、愛社精神、郷土愛、愛国心、博愛etc. これらの基本は全て家族愛なのです。 家族愛でしか培われないのです。 逆に言えば、家族愛さえ構築できていたら、ノープロブレムです。 社会の愛など他は考える必要すらないのです。

noname#213414
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • hyuuma8579
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回答No.5

ありのまま=正直・・・素晴らしい財産だと思います。 少なくとも偽善(いい人ぶる、人格者ぶるなどの見せ掛けの善)や 偽悪(悪ぶる、不良ぶる、ダメ人間ぶるなどの見せ掛けの悪)よりは、はるかに人間らしい生き方だと思います。 偽善や偽悪が悪いのは、本当の姿を人に見せない=隠そうとしているからです。ありのままの真実を知ってもらうのが愛といえるでしょう。 そうでない自分、不正直な自分を人様に知らせてしまえば、そこから既に人間関係に狂いや歪みが生じさせてしまいます。仮面をかぶった人間に対して、愛ある生き方ができなくなってしまうのです。 つまり、人と人の愛あるコミニュケーションが取れなくなってしまうのです。 人が人に対して良かれと思って普通に接していても、そうされた本人の内心では嬉しくなかったりとか、ずれが生まれ、だんだん大きくなっていき、気づいた時には、テレビに映った校長先生が「A君はそういう子じゃなかったのですが・・・まさか」などとコメントするはめになったり、同じマンションの住人が「Bさんは、いつも挨拶してくれる明るい青年だったですけどね~」などと驚くはめになるのです。 人間誰しも長所もあれば短所もあります。 長所は伸ばし、短所は努力して直していけばいいのです。 もともと持っている短所を人に見られたくないといって一時的に隠すことより、人にしっかり短所も知ってもらった上で、それを直していく姿こそ、人として信頼を得ることができると思います。 裏表がない・・・一番人を安心させることができるのです。 ただ、素直な自分=ありのままの自分でいることが、全体の規律や秩序を乱すことがあるのです。その人個人のありのままをとやかく言うというよりは、それを見たあるいは知った他の人間への風紀上の影響を与えてしまう可能性がある場合、経験上、その人(=ありのままの人)に注意を促すのは、全体に責任を持つ先生の立場ならやむを得ない場合もあるかもしれません。 特に若い青少年期の学校社会・・・とても傷つきやすかったりデリケートな側面がありますからね。 ありのままや正直に生きるっていうのは、その全体の状況も関係してくる、つまり、全体の状況があって、そこに求められる自分を創る(=合わせる)こともまた正直な生き方であり、ありのままだと思うのです。 極端な例として言えば、時代劇でどんなにお偉いお奉行様がいても、そこに現れたもっと偉い水戸黄門の前では、ひれ伏すようになるように、そうすることが一番相応しいシチュエーションがあるということです。 目の前に立っている人が、目上の人か目下の人か、先輩か後輩か、先生か弟子か、天皇陛下か一般人かで、然るべき心のあり方が然るべき態度や言葉使いを生む場面があるのです。 一人間として素直でいることと自分が置かれた位置に相応しい態度を取るということは、全く別な話ですが、 その位置に相応しい態度を取ることもまた素直なことと言えるのです。 父母の前では子らしく、子供の前では親らしく、先生の前では生徒らしく、生徒の前では先生らしく、 目上の人には目下の人らしく、目下の人には目上の人らしく、先輩には後輩らしく、後輩には先輩らしく接することができること・・・ らしくというのがありのままであって、らしからぬのが素直じゃないということになります。 自由と規範(法則などの必然性)は一対です。自由である代わりに、しっかり秩序は守るのです。 自由といえども秩序の一角が崩れれば、全体の崩壊に繋がるので、宇宙にもそれを排除する働きがあるのです。 必然性の上に成り立つ渦巻き型の宇宙の銀河系中の太陽系の惑星秩序が僅かでも狂えば我々は生存できないのです。 ここで形や態度を創ることは、偽善や偽悪とは異なります。自分のために隠そうとするのではなく、相手を思う気持ちが積極的に態度に出るからです。つまり、やましさや後ろめたさがないのです。変えるという形は同じでも自己中か愛かの境目は自分のことを思ってそうするのか、相手のことを思ってそうするかの違いです。 らしい、場に相応しい・・・これもまたもうひとつのありのままなのです。ですから、素直な自分を見る視点の他に、全体の中の自分の位置を知ることが重要なのです。 地球という星は、ありのままで素晴らしい星なのですが、だからといって、「どうしてこの俺様が、太陽の周りをいちいち時間通り回らなければならないんでえ!!」なんて言いません。 そういう秩序に従って、休まず回っているからこそ、全体が保たれ、結果、美しい地球も滅ばないで生きていられると知っているからです。 更に、もう一つの重要な点があります。 ありのままとか素直と一口に言っても、実は人間の心には、本心と邪心という相反する心があるのです。 ここで私が言っているありのままの生き方とは、邪心に忠実に生きることではなく、本心に忠実に生きることであることは、言うまでもありません。 自己中心な心なら盗みたいと思ったら盗む、殺したいと思ったら殺す・・・こんなとんでもないありのままの生き方になってしまいます。 でも、人間が難しいのは、この二つの心が自分という一つの固体の中にあるからです。 本心の通りに生きるには、心の目が曇らないように努力することが必要です。 自分ばかりに囚われたり、自分本位ではなく、人を幸せにする、幸せにしたいという本心の声に耳を傾けることですね。 それが、結果として自分の幸せに返ってくるのでしょうから♪

noname#213414
質問者

お礼

>自分本位ではなく、人を幸せにする・・・・ でも、私には、「幸せになってほしい」という人は家族しかいませんね。他の人は、自分のことしか考えてないって感じだし、私の思いやりも「幸せになってほしい」という思いやりではなく、相手が嫌な気持ちをしないための思いやりって感じですね。そこまでの思いやりです。それに、場に合った応じ方は必要でしょうけど、あんまり、人に求められることにいちいち応じてたらダメだと思いますね。自分の身は自分で守らなきゃいけないですし(?) そりゃ、自分のことより、他人の幸せを願うことが出来たら、立派な人間でしょうし、善人でしょうけど、私はそんなにイイ人じゃないです。というか、一部の本当に大切な人を幸せにしたい!というのなら、分かりますけど、自分の周りの人みんなに、自分のことはいいから、幸せになってほしい!っていうのはきれいごと、教科書に載っているマニュアル、いかにも大人が子供に言いそうな正論の教育(?)ですね。 わたしは、あんまり人の幸せを願うタイプではないですね。 回答ありがとうございました。

  • forever116
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回答No.4

30代♂です。 あなたにように、あるがままの自分で生きて行きたい と思う人は多いと思いますよ。 でも、それが出来ないのが今の世界です。そして、だから こそ学ぶことも多いと思います。 人には表の顔と裏の顔があって当然です。そして誰でも、 裏の顔を隠そうとするものです。こんなことを思ったり考える 自分は、本当の自分なはずが無いと思うのです。 みんな、自分は綺麗で美しい心の持ち主だと思いたいのです。 むしろ、裏の部分が本質的だとも思えます。 多分、地球上の人類が素直に思うとおりに生きた場合、 今以上に悩み苦しむのかもしれませんね、 心をストレートに出すということは、良い場合もありますが、 多くの場合、相手を傷つける可能性が高くなるからです。 これも全て今の世の中の一般的な価値観がそうさせるだけ ですが、時代が代われば又違う思想が生まれるのでしょうね。 あなたが、ありのままを受け入れて欲しいならば、あなたも 相手のありのままを受け入れる必要があります。 そうしながら、同じ価値観の方を見つけることです。ただし、 そういう方はあまり多くは無いですから、一人見つかれば いいでしょうね。これは夫婦であっても難しい問題なのです。

noname#213414
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • h1r0s13
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回答No.3

優しさが文面から伝わってきます。本当に優しい方ですね。 「ありのまま生きた方がいいよ」そう思います。 せっかく400年ぶりに地上に降りたのだから、嘘隠しは無しです。 素のままの自分でいて下さい。 私は少しだけですけど、幽体離脱ができます。 そこで色んな霊界の村々を見てきました。 この地球系霊団には、幾千億の階層があります。上段階に行くに従って愛の光の量が増えていきます。 霊界では、ことさら自分を良く見せようと思う人はいません。それは直ぐに見破れるからです。 そこですごすごと、自分が居心地の良い村に帰って行きます。霊界では自分を誤魔化せないのです。 唯一誤魔化せるのはこの次元で、そして自分より高位の(霊)人と接しられるのも、この三次元だけです。 久しぶりの人間界です。おおいに楽しんで下さい。そして見返りを求めない生き方をして下さいね。

noname#213414
質問者

お礼

>本当に優しい方ですね ありがとうございます。 霊のことはあまり分かりませんが・・・・・ 回答ありがとうございました。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.2

…人はね、誰でもみんな欠点を多く抱えてる。 そしてそれは、よく他人を傷つけたりするし、自分以外の存在にダメージを与えるものだ。 相手が人間だけじゃなくて、例えば「自然」にだってそう。 どんなに純真な子供だって、無造作に花を踏みつけにしたり、蛙を理由も無く殺したりするだろ?。 ケラケラと楽しく笑いながらさ。 そんなとき「子供だからな」といって放置しておくときもあるけど、時には大人が大人なりの理由や考え方で諭してあげなきゃいけなくなる。 「なぜ駄目なのか?」を聞かせてあげるときがある。 「命の時間」は突然にして奪われることもある。 自分がその「理由」になるときもある。 そういったことは「実感」してわかるものだけど、そうではない「人間らしさ」というもの…人間の「善」というものは、大人が教えなきゃいけないときがあるんだよね。 「ありのまま」っていうのが「前者」。 「建前」というのを「人間らしい優しさ」としたら、それは「後者」なんだ。 つまり「大人の優しさ・人ゆえの優しさ」っていうのは「建前」の要素がとても強いものなんだよ。 だから卑下することはない。 ただこの二つは「両輪」だから、どちらが足りなくてもアンバランスだよね。 ときには「ありのままの自分」というものを「言葉でなくて態度で」指し表してもいいんだよ?。 「不言実行」って言うじゃない?。 他人との関係性の中だけじゃなくて、自分の「意志」に潜ませていれば、それで十分。 行動の根幹に「自分」と言うものがあれば…自分に正直ってことだよね…それで良いんです。 自分と言うものは無理に出すものじゃない。 「いざ」というときにだけ、表に出せばいいものです。

noname#213414
質問者

お礼

建前も必要なんですね。 「人間らしい優しさ」→「建前」 でも、人がいっぱい居る中で長時間、建前で居るのは疲れます。 ありのままの自分が「むかつく」とか考えながら 笑顔を振りまくのは、そして相手の聞きたくもない話を聞くのは 疲れます。 でも、慣れですよね。話ずれてる?かな? ありのままの自分を秘めながら、建前で居れたらいいですね。 回答ありがとうございました。