スポーツ・武道・格闘技・遊技の関係をどう考えますか?
まず、ここではスポーツ・武道・格闘技・遊技を、
以下のように定義します。
スポーツ…現代の日本において、
「趣味はスポーツで、最近は○○をやっています」と言って、
特に相手に違和感を感じさせないもの(例 野球、サッカー、ゴルフ等)
武道…体を動かし、名前に「○道」と入るもの。
これは「道」と付くだけで、そこに価値が有りそうに見えるから。
(例 柔道、剣道、杖道)
格闘技…体を動かし、相手と相互に肉体的ダメージを与え、
その蓄積により相手を屈服させることを目的とするもの
(例 ボクシング、k-1)
遊技…一般的には上記のどれにも属さないが、
どれかに属すと言う者もいるもの(例 釣り、TVゲーム、チェス等)
ただし、厳密には知的な遊技とそれ以外と分ける。
これら4つのカテゴリーは現在の日本において、一般的にはどういった関係にあるのでしょうか。
「釣り」は「釣りはスポーツだ」と言い、
武道は「自分はスポーツではない」と言う。
格闘技も「自分はスポーツではない」と言う。
チェスは自分を「ブレインスポーツ」と言い、
カーリングは「氷上のチェス」と言う。
皆様のご意見を教えてください。
「遊技は卑しいもの」でも、「格闘技なんて馬鹿のやること」でも、
何でも良いです。
ただ、ある程度は論理的な振りをしてください。
「貴賤なしです」とか「頑張ってやれば、みんな~です」といった、
一般的な話やキレイゴトの下らない話は要らないです。
上記の4つのカテゴリーを通して、現代日本の文化を見つめた時、
どのような見方が出来るか、面白い意見を聞くのが今回の目的です。
ですので、言葉の「定義」はここに書いてある通りですが、
面白い定義をした上で、ご意見を書いて頂くのは歓迎いたします。
(今回の私の定義には大きな欠陥があります)
以下はだらだらと私見を書いただけなので、暇ならどうぞ。
つっこみは大歓迎です。
<私見> (括弧内は一例)
1対1の関係において、自他のどちらの立場を述べようが、
一方がもう一方を同じ立場と見なすのを「自者的」、
一方がもう一方と同じ立場とは見なさいのを「他者的」とすると、
・スポーツと武道の関係では、
相互に他者的である。
(野球は自分を武道と言わないし、剣道は自分をスポーツと言わない)
・スポーツと格闘技の関係では、
スポーツは自者的、格闘技は他者的である。
(テニスは「血を流さない格闘技」というが、k-1は「スポーツ」と言わない)
・スポーツと遊技の関係では、
スポーツは他者的であるが、遊技は自者的である。
(スポーツは「遊技である」と認めないが、釣りは「スポーツだ」と言う)
・武道と格闘技の関係では、
相互に他者的である。
(武道は格闘技を「野蛮」と言い、格闘技は武道を「柔い」という)
・武道と遊技
相互に他者的である。
・格闘技と遊技の関係では、
格闘技は他者的であり、遊技は自者的である。
という見方をすると、
(1)武道と格闘技は常に自分は他と違うと思っている。
(2)スポーツは自分を「格闘技」と呼ぶ事は認めるが、
「遊技」とは違うと思っている。
(3)遊技は「スポーツ」や「格闘技」と呼ぶ事を認める。
(「武道」は、定義で「道」が付く事を特別視しているため、
良くも悪くも全てから他者的に扱われる)
かつ、「~と呼ばれる事を認める」場合は、「~と呼ぶ事に+の意味がある」と考えると、何か「プラスのイメージ」が強い順は、
格闘技>スポーツ>遊技である。(武道は特別扱い故に無視)
なので、日常でもプラスが低いカテゴリーは高いカテゴリーに言い換える。
・おはじき (遊技)→(スポーツ)
「相手の心理を読み1打に集中するスポーツ」
・アイスホッケー (スポーツ)→(格闘技)
「氷上の格闘技」(「氷上のおはじき」とは言わない)
ただし、遊技でも「知的」であれば「プラスのイメージ」になる。
・アメフト
「戦略性はチェスのごとし」
以上より、一般的に「知的ではない遊技(釣り等)」は最もプラスイメージが無く、これらはPLAYするものの中で最もモテない趣味と言える。
以上