この回答は母に聞きながら書いてます。
母は、戦争中に師範学校に入学し、昭和20年始めに徴用学徒(今の左翼系市民団体が言うところの強制連行と同じです)として、軍用機製造工場に終戦までいました。
終戦後帰県し、翌21年4月より小学校教員として40年奉職していました。日教組へは半ば強制的に昭和30年代前半加入していたようです。
ここからが聞いたことです。
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占領中から独立ごろまではイデオロギー的な教育方針はなく、とにかく児童と共に、まず生きていることの喜びと、自由な世の中になったことを共に歓び、荒れ果てた郷土復興のために教育していたようです。
ただ、学校が市内中心部のこともあり、闇市が校区にあり、三国人の脅威に子供たちを守るため必死だったようです。
警察よりもMP(米軍憲兵)や、戦前からいる地元ヤクザが積極的に子供たちや学校、一般市民を三国人からまもっていてくれたそうです。
おかしくなり始めたのが1950年12月に公布されたいわゆる『勤務評定』に反対し始めたのが日教組が教育現場にも左傾エネルギーを注ぎ込む端緒になったようです。
そのころから各学校には組合専従員が居て幅を利かせ始めて、『日本はまた悪い歴史を繰返そうとしている』だの『日本を北朝鮮のような地上の楽園にしよう』などの思想教育が教員に向けて始りました。
また教員の中にも教科書を使わず日教組の出した副読本を主体にした授業や毛沢東や金日成のことを教える教員も増え始めたようです。
1964年の東京オリンピック以後、日教組の力もピークになり、日教組系の学者の指導方式が授業に使われることも不思議ではなかったようです。
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ここから私の高校時代ですが、ベトナム戦争が勃発…教科書は今とくらべるとずっとまともでした。
しかし大学紛争以後、セクトに所属していた左傾学生は何食わぬ顔で卒業し、官僚になったものが多くなりました・・・
その官僚が当時の官庁で実務でやり始めたことが、「第一次ゆとり教育」であり、教科書の大幅な左傾化の始まりでした。
極左の学生が転向することなく官僚になったものですから…もう彼らと日教組の中の極左グループの思うつぼになったわけですね。
私は、母の日常を見たり話しを聞いたりで、おさな心にも『おかしい』と、感じていましたのでなんとか立ち位置を真ん中に保てたと思っていますが・・・
お礼
回答有難うございました。 誰も話したがらない貴重な経験大変参考になりました。(現職でこんな発言をすると日教組幹部から粛清されますね) 日教組がどんなに否定しても、日本人の心には侍の教えや道徳心が残っており、彼らの北朝鮮を崇拝する主体思想が間違いと気付き、衰退の一途を辿っているようですね。 学校でもゆとり教育を唱え生徒に自習ばかりさせ、闇専従(出勤簿に印を押すと、旧社会党のための政治活動に参加)ばかりしていたので学力の低下を来たし、やっと安倍政権で教育基本法が改正されたので今後に期待したいですね。