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なぜそうなってまで働くのでしょうか?
「なぜ働くの?」は、もう何年も何十年も問われ続けてきました。 そして、決まって「幸せになるため」と言う答えが用意されています。 果たして本当にそうなんでしょうか? 「幸せのために働く」とは言葉ばかり。 過労で倒れる人 残業が多くて家族となかなか会えない人 不眠、食欲不振、体力低下など、体が蝕まれている人 こんなになってまで働いて、将来幸せが約束されているのならばまだいいですが、決してそうではありません。 リストラの不安もあり、それを乗り越えて定年を迎えたとしても今度は生活苦に陥る人が多いです。老後の苦労もお金に限らず絶えません。 どうして、こんなになってまで働いて、そして、将来の幸せなんて約束されていないのに「幸せになるために働く」と言われ続けているのでしょうか? もしかして、そうでも言っていないとやってられないからでしょうか。 僕も、職場では小さなことをつつかれ、押しつぶされ、言葉をなくし、はっきり言って楽しくは無いですね。それでも働かないと自宅でも安らげませんよね。 本当は職があるだけで幸せに思わないといけないのに、職があってもそれで体を壊す。 何のために働いているんでしょう? そんな人生楽しいはず無いんですが・・・。 「人生は苦労も多いけれど、小さな幸せもある」とか言われますが、1つの幸せのために1000の苦労をしなければいけない、しかもそれが無限ループするなんて、誰が考えてもばかばかしいですよね。 100円と引き換えに10万円をドブに捨てるようなものです。 皆さんはどう思いますか?
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noname#203300
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- doorakanai
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noname#205468
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お礼
ご回答ありがとうございます。 働きたくても働けない人もいますから、福祉は必要だと思います。 でも、働くことを選択しても、体を壊して、福祉社会のお世話になる人もいます。 上司と呼ばれる人は、半ば未必の故意で社員を虐げて、社員も未必の故意で自分の体をいたわっていない、と言われてもおかしくは無いと思います。