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全ては方便ではないでしょうか

最近ふと思うのですが、 例えば、 人には親切にしなければいけない、 規則正しい生活をしなければいけない、 悪いことはしてはいけない 等々の道徳や宗教的な戒め、ことわざを含めあらゆる人生の指針とされるものは すべて方便ではないだろうかと。 つまり、何か本質的なものがあり、それを知る人はそれを伝える手段として道徳、教義、戒めを使うのではないか。 知っている人はその本質を元に言語化し、知らない人は言語を追いかける 言葉は不完全なものなので、時に解釈という本質とは無関係の所で言葉がぶつかり合う。 この図式が延々と続いているように思うのですがどうでしょうか。

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  • f5system
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回答No.1

おっしゃるとおりです。この世はすべて方便ですね。人間に生まれること自体、方便と言います。様々な教義もそうでしょう。 でもそれは秘妙方便でなければなりません。真理に導くための方便が大事ではあります。方便の名を借りて悪に導くこともあるのです。また、間違った教えであることもあります。 真理はとても言葉に表すことが難解であるがために、様々な方便でしか言い表せないわけです。釈迦は25年間で8万4千の法蔵で言い表そうとしましたが、その全ては真理のための方便であったことが書かれております。

参考URL:
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/houbenNo2.htm
shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私はいわゆる道徳的なものを指していたのですが、 >この世はすべて方便ですね。人間に生まれること自体、方便と言います。 これは人が生きている間に味わう苦難や苦痛もまた何かを知るための方便ということになるのでしょうか。 リンク先は後でゆっくり拝見させていただきます。

その他の回答 (3)

  • f5system
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回答No.4

補足いたしますね。 生老病死の4苦は本源的な悩みです。これを解決できるのが真理なのですが、真理の上に立てばこれも、方便ということになります。なぜならば、この世の一切の苦しみが、真理へ導くための手段となるからです。 その意味で、一般の道徳観念だけでは、真理を導くための方便にはなりません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 すべてが方便、待ってくえらい世界に生まれてしまったものですね。

noname#94859
noname#94859
回答No.3

象の現物を見た人が3人いて、それを見た事のない人に説明するときという寓話がありますが、結局、その寓話が質問者のいう言葉の不完全さを露呈してる事に他ならない、という事なのでしょう。 人間は言葉を持ちますが、ならば言葉を持たない動物が、太陽や昼や夜を認識してないかというと、そうではない。 仮に太陽を本質として、太陽を見たことがない人は太陽があるといわれても信用しないし、太陽を見たことが有るほとんどの人は「あれは太陽というんだよ」といわれて「名前を知る」わけで、太陽の本質を知ったわけではない。  まぶしく、温かくて、とか内部温度が何万度でという物理的な表現をされなくても太陽がわかる人とは「見たことが有る人」に限られる つまり「言葉」というのは非常に便利なのですが、本質を伝えるということは「ほとんどできない」道具にすぎないと考えられる。 その意味では「言葉は本質を伝えるものとして発明されたものではなく、自分が何をしたいのかという意思表示を示すためにできた」と言い切る方がむしろいいのかもしれない。 したいことが抽象的なら、言葉は抽象的にならざるをえない。 もともと抽象的なものは、感覚的なものなので、言葉で伝えること事態が困難なのに関わらず、、だ。 言葉では伝えられないものを伝えるのい芸術がある、ともいえる。 その言語つまり道具の解釈を幾らしても「本質はわからない」のに、ドグマ解釈が一番として、その解釈でぶつかり合うという現実がある。 その争いを「本質」を知ってる人は黙ってみてるのだが、、、。 言う人は知らず、知るひとはいわず、という故事がピッタリなのかもと思うときあり。 私は言葉は不完全である、と思います。 この既述もどれだけ伝わるか、わからないのであります。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私たちは言葉によってではなく「本質」を知らなければならないようですね。

  • key00001
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回答No.2

宗教・道徳などにも、懐疑的に疑問を持ち、ご自身でお考えになる質問者様の姿勢には、大変感心致します。 時代・事情に併せ、真理・不偏性などは自分で取捨選択し、解釈せねばなりませんね。 ただ、全てと言うことは無いと思います。 「時に解釈という本質とは無関係の所で言葉がぶつかり合う」原因は、宗教などが、為政者・政治・利権と結び付きやすいからでしょう。 言い換えたら、偉大な思想・宗教・道徳の悪用が行われているからということです。 従って、悪用の余地があるものである言葉が不完全」と言うご指摘は、ご尤もかと存じます。 宗教観・道徳観においては、理性と本能(又は感情)の対立を思い浮かべますが、理性と本能が共有する部分もあります。 生物の「本能」に起源する「理性」は受け入れやすいし、矛盾も無く、正しいと言えるのではないかな?と思っています。 例えば、殆どの道徳・宗教で禁じるものの一つが「殺生戒」ですが、自然界では、無益な殺生は原則的には行われませんので、人を殺してはいけないと言うのは容認出来ますし、動植物を含め無益な殺生には、何ら意義がありません。 質問者様のお言葉を借りれば方便に分類されることでも、命に感謝し、食糧供給に関係する全ての人へ感謝すると言う道徳観・宗教観は、必要な栄養源を本能的に尊重している自然界と低通・合致しますので、私は受け入れられます。 但し、ここまでは納得出来るのですが、それが例えば仏教徒の様に、菜食主義に発展すれば話は別。 自然界には肉食獣もいれば雑食もいます。人間は雑食の動物で、自然に反するし、栄養学的にも問題があるでしょう。 人も動物も昆虫も、生命の起源・根源は同じで、それが輪廻転生すると言う、ブッダの悟りを否定する意図は全く有りません。 しかし、この様な悟りの中で、菜食主義などの部分は、人間の本能部分では非常に受け入れにくいと思います。 しかし、法治的に考えた場合、人を殺さないために、その手前に安全柵を設置したものとして有用であったため、為政者に受け入れられ、宗教として発展したという側面もあるのではないかと思います。 現在、アジアの道徳に大きな影響を与えている儒教などは、更に為政者にとって都合の良いもので、こういう為政者に都合の良い思想・教義を多く含むものは保護され、利用された経緯は否めないでしょう。 為政者を用いずとも、思想や宗教間の対立、宗教団体の利害でさえ、各種問題が生じています。 人を人として生かし、人生の教訓とすべき偉大な宗教家の思想・言葉を、言語の解釈どころか、現在は曲解・利用して、利権構造化している部分さえ有ります。 宗教問題で戦争まで発生しているのは、正に本末転倒・言語道断です。 そういう意味では、仏教の末法思想などは、千年単位の期間で概ね見事に未来を予見しており、ブッダなどの偉大な宗教家に尊敬の念を持たずにいられませんし、逆に、2千年以上も前の人間に、ものの見事に言い当てられた現代人としては、恥ずべきことですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ○○主義となった瞬間に方便が一人歩きするのかもしれませんね。 お釈迦様がどうであれその真似をすることは本質から離れてしまうことになるのでしょう。