基本的に、母艦が沈んだときどこへ向かうかは、現代の米海軍では必ず指示されます。
でも、太平洋戦争当時は、飛行機の航続距離が短いことが多いので、基本的に味方の艦隊にもどることがお約束でした。
ここで日米の違いがでます。
日本は航空機搭乗員も、その艦の乗員、とみなされます。で、母艦が沈んで他の艦に着艦したら、いきなりその艦ではよそ者になってしまうのです。なので、せっかく帰っても「ウチの艦載機を優先的に格納庫収容するから、お前廃棄」とか着艦アト、にされて不時着してしまうものもでます。また、他艦乗員をまぜた航空隊の編成が困難になってしまいます。だから、5機あるけど、2機は他の艦が母艦だったから、3機と2機の編成でだす、などいう不合理なことをしていました。
アメリカ側は航空機乗員は艦の乗組員ではないので、ドンドン収容して、混乱はあるでしょうが、必要ならドンドンと編成をかえて出していました。あぶないときや、いっぺんに帰って来て収容がタイヘンなときは、日本同様ドンドンと損傷した機材は海に捨てていましたが、反撃をするときなどは、自艦他艦関係なく、ドンドン編成を組んで出しました。
母艦がいなくなってしまったときなどは、できるだけ味方の軍艦の近くに不時着します。日本ではこの不時着した機体を回収する護衛駆逐艦のことを「トンボ釣り」と言っていました。大きな軍艦の近くに不時着すると、かえって相手は身動きが鈍いので危険です。アメリカもその辺はかわりません。
近くに基地や平地があって、敵機に追われていたら、フラップとギアを出すことが、降伏の合図でした(亡命のときもこうします)。敵母艦に着艦することは、当時日米の着艦誘導装置などが徹底的に異なっていたため(日本の方が進んでいた)、不可能だったと思われます。ただ、敵艦隊のまんなかで撃ち落とされ救助された例は、あります。
お礼
今回はわざわざ本当に詳しくご回答くださって有難うございました。 とても勉強させていただきました。感謝します。