精神疾患の元を環境によるストレスと云う言い方が有りますが、同じ環境でストレスとしない人もいます。是は同じ環境、条件をストレスとする人と、ストレスにしない人、或いは考え方が有るのではないかとも言えます。この事を突き詰めていった場合に、気が付く事が有ります。
ストレスにするか、しないかはその人の考え方に、世の中の見方によるのではないかという事になります。精神に支障をきたすと云う事は、その人に中にその原因が有るのかと思います。その原因は不安と云う事になります。その不安の処理の仕方に原因が有るような気がします。
脳内物質がその原因と考えられていますが、それはおかしい考え方と思います。不安が有るから、脳内物質の分泌が正常に出来なくなると云う事ではないかと思います。その元は不安であって、その不安の処理の仕方が不適切のために、不安が増大して恐怖にまでなってしまうと云うのが正解かと思います。
誰にでも有る、只の不安を恐怖にまで大きくしてしまう考え方の相違のために、精神に支障が起きてしまう。と考えた場合に、その解決方法は薬では効かない、或いは完治出来ないと云う事になります。その元に在るのは「漠然とした不安、或いは、心の異常感、或いは、違和感」と云うものだとしたなら、これは神経症の症状と云っても良いものです。
そこで、神経症の完治と云うものについてか言ってみます。神経症は心に湧きあがった、普通の感情を異常なものとして、心の異物としてとらえてしまいます。その異常なものとして感じた事が「症状です」
人間は意識をして生きていますから、症状には様々な症状が有ります。
感情面でいえば、怖い事--広場恐怖、先端恐怖、対人恐怖、不安障害、、、、、まだまだいっぱいあると思います。
行動面からいえば--書痙、吃音、上がり症、他にも行動を伴った症状はたくさん有ります。
身体的に言えば--検査の結果は異状なしなのに異常を訴える事です。これにも様々な症状が有ります。主に体の異常を、胃や、腸や、関節や、あらゆる事が症状になっています。
これらの訴えの特徴は、誰にでも感じられる事を、本人だけが異常として感じている事です。ただ異常として感じている事が訴えの特徴です。神経症を完治した経験から言いますと、それは、本人の認識の誤りだった。という事になります。
特に不安の対処の場合には、原因の特定が出来難い事から不安は、意識の対象になり易いものです。
不安は自分が原因です、その不安を意識して、心から追い出そうとすると、小さな不安が大きな恐怖にまで拡大されてしまいます。この事が起こる原因は簡単な事です。判ってしまえば簡単な事ですが、苦しんでいる人に説明する事は、難しい事です。
不安は誰にでも有るものです、その不安の元は、自分自身がつかめないと云う事がその大本を成しています。自分が分からない、人生が分からない。この事が一番の根本に在ります。その事から各種の不安が生じています。
その事を掴むことが宗教の根本を成しています。人間の悩みの根源は自分自身を把握したいと云う、欲求がその元となっています。この事がつかめないと云う事から精神疾患の治療が困難を極めると云う事になります。自分自身を知ると云う事が根本治癒という事になります。
お釈迦様が悟りを開いた、という意味は精神疾患の正体を知ったと云う意味になります。自分自身を苦しめていたものと出会うと云う事になります。漠然とした不安な、罪悪感、押し詰められた感じの圧迫感などが何処からのものなのか?という事が分かったと云う事になります。
その原因が自分自身の中に在ったと云う事です。それは自分自身の働きと言えます。神と云っても良いものです。神と会って和解したと云う事になります。心が騒がしく言い争いをしていた状態が精神疾患の状態ですが、心が静かになります。心が言い争いをしなくなります。
子供の頃の心の平安が戻ってきたと云う事になります。この事を学ぶならそれは「禅」の中に在ります。不安になり易い先達達が如何にしたら、不安の多い人生を安楽に過ごせるのかをケmm九してきたからです。禅の歴史は、不安解決の歴史です。禅問答が解けた時の言葉です。「生死の問題を解決した」と云う事になります。何物にも囚われない自由な心の獲得です。
鈴木大拙博士の書いたものを学ぶ事はいかがでしょうか?不安の解決は本人自身が自分自身で学んで、体得する以外には不可能な事と言えるからです。
お礼
ご回答ありがとうございます。丁寧に書いていただき参考になりました。