>強くなりたいです。
ウフフ、人間みんなそう思っていますよ。「自己改革のテーマ」のようなものですね(笑)。 でも本物の強さって一体どんなものでしょう? 「勝つ」とか「負ける」とか、「勝ちたい」とか「負けたくない」とか、そういう《自我》の思いの葛藤がある場面では、本物の、いわば「柳に雪折れなし」のような自然体での強さ(しなやかさ)は持てないんじゃないかと思うのです。
「強さ」「強い」って何なのかと思います。風を強く受け止める氷が強いのか、吹いてきた風をそのまま受け止めてふんわりと受け止める柳のような植物が強いのか・・・
tomopuさんの求めていらっしゃる「強さ」は、この文面だけで判断する限り、私にはどうも前者(氷のごとき強さ)ではないかと思われるのです。私の勝手な推測ですので外れているかもしれないことは敢えて承知の上で書かせていただいているのですが、他者との比較の上での《強さ》というものはその基準が曖昧であったり高低があったりしますので、私にはあまり意味がないような気がするのです。
>えぇ私がみたいな、結構人気の高い仕事で私以外にもやりたい人がいました。
『えぇ私がみたいな』という発想が先ず分かりません。「私」で何が悪いのでしょうか? いや「私」だからこそ与えられた任務だったのではないのでしょうか? 「私以外にもやりたい人」・・・ それは今の不景気な世の中だからということに限らず、いつの世にも多数いたと思います。
>自信がなかったのです。 何においても、いつもそうです。
このことに関しては98occoさんがNo.2にて言われた名言以上のアドバイスはありませんね。『生まれたときは誰も自信なんて持ってません、自信はあとから自分でつけるもの』と・・・
ここで98occoさんは、tomopuさんには誠に失礼ながら、tomopuさんのある意味「思い込み」のような呪縛を解き放ちたいと考えられたのかもしれません。事実私がこのご質問文を読んで受けた第一印象がそうでした。即ち、どこぞの誰か(何者か)と比較対象した上での「強さ」の基準だなと…
陳腐な表現で誠に申し訳ないのですが、向日葵には向日葵の、菫には菫の、そしてまた百合の花には百合の花の美しさ、見事さがあると信じて疑わないのです。向日葵、菫、そして百合…この花に心があれば、『自信がなかったのです。 何においても、いつもそうです』なんて弱音を吐くでしょうか。無心に咲いて、その時々に、向日葵が必要な人に愛され、菫の必要な人に愛でられ、百合の花に癒される人がいる、というだけの話ではないでしょうか。比べないでほしいのです。こんなに様々に、そして豊かに咲き誇る「命」を、何かを基準にして比べることだけはやめていただきたいのです。
>完全に病気に負けてしまっています。
…ですよね、今のtomopuさんのご心境ならご病気に「負けてしまってい」ても何の不思議もありません(笑)。何故なら、命を比較なさっているからです。何かを基準にして、そこからご自分の命の価値を見定めようとなさっているからです。そのご心境から一歩前へ踏み出さない限り、ご病気に負け続けます。
tomopuさんはご自分を花に譬えるとしたらどんな花を咲かせてくれるのでしょう? どんな花だったらお幸せでしょう? 人間はすべて自分がなりたい花になれるのですよ。いえ、嘘ではありません。ホントになれるのです。他者(他人)と比べて何が優れている、何が劣っているという『差別の心』さえなくしてしまえるのならば…
tomopuさんの命が満開で咲き綻ぶ日が来ますように…
補足
結局、自分の問題なんですよ。病気も告げて仕事にもつきました。 そういう意味ではすごく日本の企業としては視野の広いところだったんでしょう。 それなのに、そのことをプラスとして考えなかったのです。 生まれたときは誰も自信なんて持ってません、自信はあとから自分でつけるもの。 →とてもいい言葉だなぁと思いました。