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昔走って席に付こうとした仁堀航路のその後の運命は

此の前、松山に所用があり行きました。 道後温泉や松山城、タルトに坊ちゃん列車は余り変わってなかったのだが・・・ うっすらと覚えている、仁堀航路(鉄道連絡船)は跡形も無いようだった。 地元のタクシーの運ちゃんも、あんまり知らずに、こちらの質問へ生返事だった。「決して、近すぎたり、しつこくしたつもりはないが」 (1)何処に駅と港があったんだろうか? (2)何時、廃止されたのか?宇高連絡線とどちらが先に? (3)瀬戸大橋の影響?それとも需要減で? (4)連絡船、駅のその後は?

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  • 70dai0001
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回答No.1

拝見しました。 懐かしいです。・・仁掘航路 もう55年も前になります。松山在住の若い頃、夏場に休日前の夜には堀江港へよく行きました。浮き桟橋には、夜通し灯りが点灯されており、それに寄って来る鯵(アジ)の小さなのを朝まで釣っていました。 そのご大阪へ出ましたのでその後の事は一切知らず仕舞いでした。 ご質問から何時頃まで仁掘航路が有ったのかと調べてみました。 この歴史は以下の事が分かりました。・・・・有難うございました。 1946年(昭和21年)5月1日 航路開設。 1982年(昭和57年)7月1日 航路廃止。 参考URL http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%A0%80%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%88%B9  http://www.interq.or.jp/white/ishiyama/column35-0.htm http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=33%2F54%2F3.064&lon=132%2F45%2F21.16&layer=1&sc=4&mode=map&size=s&pointer=on&p=&type=static&CE.x=293&CE.y=284 

lions-123
質問者

お礼

ありがとうございます。 思い出と共にご紹介いただいたURLを懐かしく味わいながら検索しております。 どうもお世話様でした深謝申し上げます。

その他の回答 (2)

回答No.3

廃止時期や理由はすでに出てますので、他の情報を。 仁堀航路は、仁方も堀江も駅から離れた港から出ており、駅はたぶん当時のままだと思います。末期に乗った事がありますが、仁方駅は、駅の裏側が桟橋の最寄になるので、ホームに直接入れる裏口のような出入口がありました。このあたりの細かい点は変わっているでしょう。連絡船廃止後の港には行った事がないのでわかりません。 堀江駅は駅前の通りを真っ直ぐ行くと港でした。私が乗った当時から民間会社の堀江~阿賀のフェリーが出ており、こちらは今も健在です。フェリーが発着する岸壁の横には、仁堀航路が使っていた桟橋の跡が明確に残っています。 宇高連絡船のように、駅に直結した港から出ていたわけでも、列車に接続して船が出ていたわけでもありません。私が乗った頃は、完全にカーフェリーでした。お客はほとんどおらず、早々と廃止だなぁと思っていたら、1年も経たずに廃止されてしまいました。 もしも駅の近くから船に乗って広島方面に向かったご記憶があるなら、伊予鉄道の高浜駅前にある高浜港だと思います。明治中期以降、松山観光港ができるまでは、こちらが松山の海の玄関でした。坊ちゃんが上陸したのも高浜港だと思われています。

lions-123
質問者

お礼

そうか! 私が乗船したのは昭和30年代だと思います。 親父に連れられ、広島の原爆ドーム、安芸の宮島から宇和島に向かう時に利用したように記憶してます。 ありがとうございました。

回答No.2

基本的な情報は↓こちらを参考になさるといいですよ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%A0%80%E9%80%A3%E7%B5%A1%E8%88%B9 瀬戸大橋開通以前に赤字で廃止されています。 この様子だとタクシーの運転手さんも分からないでしょうね。

lions-123
質問者

お礼

そうですね・・・。 ずいぶん前に廃止になっていたんだなぁ~。 そういえば、広島から仁堀航路で松山へ渡り→四国内の列車は確か準急までしかなく、彼方此方で途切れていて、道路も今のように高速網で結ばれず、面河、足摺、室戸、桂浜,土柱、大歩危小歩危、金毘羅、屋島、鳴門をユースホステル&国民宿舎を利用して貧乏な旅をして回るのに1週間位かけたように記憶してます。 色々とご教授賜りありがとうございました。

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