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いじめと集団心理

派遣先に派遣されて数か月になります。 派遣先に派遣された当初は正社員同士 仲が良くなさそうでしたが ここ最近ぐっと仲が良くなっているような気がします それと同時に私へのいやがらせが集団で発生しています いじめが起こると いじめられている人間以外の結束が強くなり 集団いじめの原因となりますが どうして「いじめ」を機に 集団での結束が強くなるのでしょう?

みんなの回答

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.3

こんにちは。 「いじめ」というのは「行為」ですから、それには「行動の動機」が存在します。 「いじめという行為」は自分には不利益が発生しません。ですが、これだけでは選択の基準にはなりません。では、何が「利益・報酬」なのかといいますと、それは「自分の安全が確定され、不安が解消される」ということです。 誰かに対していじめという行為が行なわれるならば我々はそれを「不利益」と判定することができます。つまり、そのひとが可愛そうという判断は下せるわけです。ですが、これと同時に自分がそうでは困るという不安が発生しますので、必然的に「自分の安全」が要求されることになります。そして、その安全は「自分以外」に対していじめを行なうひとの数が保障してくれます。このため、いじめは集団化します。 良く、いじめとは他人の痛みを理解できないからだといいますが、これはおかしいです。 他人にとって不利益であることが予測できなければいじめという目的に応じた行為を選択することはできません。ですから、それが行なわれる以上、善悪の判断はちゃんと付けられるはずなんです。このため、分別のある大人の世界でもいじめは発生します。 では、いじめをなくすためには他人の痛みを知るだけではなく、それを使うための「勇気」が必要です。ですが、集団の中では多くのひとがその勇気を持つことができません。従いまして、いじめとは人間の弱さの現われということになります。そして、この弱さが結束を生みます。 集団に属するならばそれは正義です。何と忌まわしい論理でしょうか。ですから、この結束が破られますと危険が降り掛かるだけではなく、自分が卑劣な行為に加担していたことを認めなくてはならなくなります。元々分別は付けられるのですから、それが一番怖いのだと思います。

回答No.2

>それと同時に私へのいやがらせが集団で発生しています お気の毒なことです。大変ですね。 相談できる方は、おられないのでしょうか? >いじめが起こると いじめられている人間以外の結束が強くなり >集団いじめの原因となりますが どうして「いじめ」を機に >集団での結束が強くなるのでしょう? 少し違う観点ですが、オオカミには、アルファーとオメガがいて アルファーは、群れのトップです。オメガは最下位のランクのも為 逆らうことは許されません。 アルファーは、オメガをいたぶることで、群れのボスとして 君臨し、オメガはいたぶられる代償に、食べることを約束されています。しかし、人間の場合のいじめは、これにもう一つの要因が 加わってきます。 いじめの構造主義的解釈、菅野盾樹は、構造主義の見地に立って、E.リーチとM.ダグラスの理論をまとめつつ、曖昧なものを産出することをつうじて秩序が作られるという、いじめの基本的戦略を説明しています。 リーチのいう、中間的な範疇の創出により分類が実施されるという見地は、ダグラスのいう、秩序化が汚れを要求するという見地と立派に両立する。それだけではない。ふたつを一緒にして、一つの社会理論へ統合することができる。リーチが発見した、多少なりとも儀礼的価値を担った中間者と、ダグラスがいう汚れとは、広く存在論の用語でいえば、いずれも「曖昧なもの」に含められる。彼らから学びうることは、存在論に即していうと、秩序は曖昧さの創出をつうじてもたらされるという命題なのです。 「中間者」「汚れ」「曖昧なもの」は、私が「境界上の両義的存在者」と呼んだものに相当する。菅野は、いじめにおいて曖昧なものが産出されるというのだが、むしろ逆に、曖昧なものが排除されると言うべきではないのか。いじめという動的プロセスを説明する時には、秩序と無秩序を示差的関係で静止的に対置するだけでは不十分である。もしも、曖昧なものが秩序を作る上で必要ならば、なぜいじめをする者たちは「どっかいけ」と言って、曖昧なものを抹殺しようとするのです。 もう一例を挙げて、曖昧なものの産出が秩序の形成に要求されるさまを観察しています。日本語では、「暖かい」と「冷たい」が対立します。それぞれが意味するのは、アルコール温度計の目盛りに代表される連続的な量に、暖かくもなければ冷たくもない中性点、<生ぬるい>がもちこまれてはじめて分節化してくる質です。  菅野氏の論法を使うならば、「合法」と「違法」の間に、裁判官の恣意的な判断でどちらにでも解釈できるが「曖昧」なグレーゾーンが存在した方が、白黒がはっきりしている場合よりも、法的秩序が形成されるということになってしまいます。 ある種のいじめに光を投げかけると、いじめの動機の首位に「弱い子や鈍い子を面白半分に」があげられています。曖昧さを背負っているからです。正確にいうと、彼らに曖昧さが付与されることによって、集団の同一性が集団外のものに対立するかたちで確保されているのです。 いじめられやすい属性である「弱い」と「鈍い」を「暖かい」と「冷たい」の中間である「生ぬるい」に対応させようとすると、「弱い」も「鈍い」も平均から離れているという意味で、ふたつのタイプの子がいじめの対象になりがちである。ひとつは過小タイプ、ふたつは強意タイプである。「過小タイプ」とは「弱い子や鈍い子」といった平均以下の存在者で、「強意タイプ」とは、「体格がよく成績も良い」平均以上の存在者です。中間的存在者とは、《自分の近くにいる同質者》と《自分の遠くにいる異質者》という《排除する必要のない存在者》と《排除することが不可能な存在者》の中間に位置する《自分の近くにいる異質者》という《排除する必要があり、かつ排除することができる存在者》である。つまり、件の中間性とは、性質の平均性ということではなくて、不可能性と不必要性の間に存在する地平的中間性なのです。 3. いじめをなくすにはどうすればよいのか なぜいじめが起きるかという話はこれぐらいにして、どうすればいじめがなくなるのかという話に移ろります。いじめは、社会的構造的現象であって、個人的心理的現象ではないのだから、いじめの問題を解決するうえで、「思いやりの心を育む」とか「心と心のふれあいを大切にする」といった、NHKで教育評論家が口にするようなキャッチフレーズを持ち出しても的外れです。学校や警察や政府がいじめ問題を解決してくれることを期待することも、場合によっては逆効果です。徹底した管理教育を行い、「我が校にはいじめは全くありません」と校長が胸を張る学校ほど、見えないところでいじめが行われているものである。学校の名声が汚されないように、ケガレをキヨメようとすることが、いじめの温床になるのです。皮肉なことに、しばしばいじめ問題の解決を期待される学校や警察や政府の内部では、子供間のいじめに勝るとも劣らぬ陰湿ないじめが行われています。学校の職員室では、嫌われている教師が当番でお茶を入れると、同僚教師たちは、みんなでいっせいにそのお茶を飲まずに捨てる。お茶の排除を通して、嫌われ者を象徴的に排除しようというわけです。警察で先輩が後輩をいじめるということもしばしば報道されています。 なんだか難しいことを書きましたが、要約すれば 人間には、いじめるという感情が内在していて、その内在した感情を 引き出させる人間が現れると、いじめ現象として表面化するという 事なのです。

noname#84191
noname#84191
回答No.1

いじめ対策ではなく、集団心理を知りたいのですか? それなら、理由は簡単でしょう。 虐める対象がある限り、自分の身は安泰だからです。 立場の弱い(派遣などの)部外者なら、問題も公になりにくいです。 何処かの国の政治家も、外敵を作る事で国内を治める手法を使います。 会社(員)でも無意識にそれと同じ事をするわけです。 仮想敵でもいれば、一致団結・・です。

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