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今後の人生に全く希望が持てません。長文です。
私は大学三年生のものですが今後の人生に全く希望が持てないんです。 本当です。 就職活動中で、それが上手く行かないと言うのもあるんですがそれだけじゃないんです。 正直ある程度の大学・外見ではあるので選り好みしなければまあ就職は出来ると思います。 でも就職しても絶対に周囲から浮いてしまうのは分かりきっています。 就活するにあたり自分がいかに空っぽな人間かということに気づいたのがきっかけです。 大学時代何もしてきませんでした。 友達も増えなければ、勉強もしていません。 出来る限り授業をサボり、アルバイトをしてお金を稼ぐことだけに精を出していました。アルバイト先でも浮いてしまいます。 相手から定期的に連絡をくれるような友達は一人もいません。 いい感じになる男の人は格好良くて人間できている感じの人が多いのですが、いつも最初は相手が積極的でも、結局何にもなく終わってしまいます。 私に中身のなさに呆れ(実際に言われたことあります)、そのような人たちには私なんかよりずっときれいで人間力のある人がいるのに気づいたからだと思います。 大抵の人(いい感じになる男性や、短気な関係でしかないであろう人、自分以上に可笑しい人以外)に対し、すごく壁を作ってしまう傾向がありつれない印象を与えてしまうようなんですがと思いますが、大抵のひとが本当は怖くてしょうがないから壁を作ってしまうのでどうしようもありません。 結婚は出来ないだろうし、職場でも辛い立場になりそうだし、今後全く幸せになれる気がしません。 現在は若いからまだ良くても、今後年をとったら全く誰も相手にして切れなくなりそうで怖いです。 本当に好きなのはペットの犬だけです。 それしか私にはいません もうどうすればいいか分かりません。 本当なんです。 お願いします、励ましなど入らないので具体的な アドバイスを下さい。
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今日も休職応募中で暇なので、No.125のものへのお返事を書こうと思います。 それにしても、今日パソコンで自分が書いたドキュメントファイルを整理していたのですが、物凄い膨大に書いていることに、我ながら驚き呆れました。でもそれが30年間の霧によって閉ざされていたもの、蓋をされていたものの現われなのだと思うのです。でも、残念ながらファイルの損傷でもう読めないものも大量にありましたね。嫌な想いで押しつぶされそうになったりした節目に全部捨てるということをしてきたので、その捨てたものがファイル名だけで残っていたのですね。ちょっとタイムスリップできなかったのが残念でしたね。 魅力的な人が好きというのは、あなたの場合、そこに書かれたような人が魅力的と言うのだと思いますが、それはとても素敵なことだと思います。でも関われば関わるほど自分がふさわしくないと分かるというところが、あなたにある不幸と苦しみの種でしょうか。 引用させてもらいますね。 > 私はなんていうかその魅力的な人みたいに生きたいというか、彼らみたいに世の中や自分を受け入れて世の中や自分について考えられて、それらに対して色々自分なりに葛藤はしつつも、自分が自分として自然に心地よく生きていけたらと思うんです。 これはとても素敵な感覚の表明だと思うんですよ。そう思う人は多いのだけれども、それこそ若い人、思春期の人とかはそれをひとつの理想とする人はとても多いのですけれども、成長して現実というものに触れていく中で、そういう想いを現実に小さくコンパクトにして合わせることで、世の中の人は自分の人生を組み立てて行くんですね。特に、成人して、会社と社会の中でもまれていくにしたがって、そういう想いを失う人、小さくする人は大半なんですよね。 言ってみれば、あなたは自分にある理想を自分で体現したい人となるでしょう?そこもあなたの長きに渡る苦しみを理解するうえでのポイントだと思うんですよね。 そういう意味ではあなたはとても自分の理想に対して純粋なんですよね。ただ、振り返って自分が理想とあまりにも遠いと思うと、そこからエネルギーが負の方向に向かってしまい、己を蝕む面が多いのだと感じるのです。 そこからもひとつ思うのは、その魅力的なひとたちとの同一化思想というものに対してでしょうか。そのひとたちとまったく同じ形にはならないということが、あなたというひとりの人間がこの世に生じていることを考えれば、それは適わないことだということでしょうかね。あなたが彼らと近いものに辿り着くことは可能だと思うんですよね。それはもうこれからのあなた次第で如何様にもというところだと思うんです。人間、理想を絶えず内に静かに燃やして、何があっても、何が起こっても、綿々とそれを紡いで行くという方向性で生きるということに向かえば、様々な大小の障害がそうなれば面前に立つことになりますが、それでも静々とでも歩むことを止めなければ、それは大なり小なりにその形に向かって行くものなんですよね。 だから、理想と向かい合っての葛藤というものは、当然として大事に養っていく必要があるし、苦悩というものとも大事に向き合っていく必要があるんですよね。苦しむことを拒んでは、そこで捻じれてしまいますし、そこには向かえないわけですよね。あなたの場合、いつの頃からか、その捩れが生じてしまって、鬱傾向に向かってしまっているとも考えられますよね。僕の重い霧は、そういう意味では幼くして捻じれてしまった故であるとも言えるでしょうね。もちろん、それには先天的要因と後天的要因が比重重く関わっているということでもあるのですが。 話を戻しますと、人は先天的のも、後天的にも、様々な要因が絡んで有るものですから、同一的にその理想たるものに向かいはしないし、理想たる形にぴたりと同じに収まるわけでもないんですよね。それに理想に向かい際の自分の評価の仕方というものもあるでしょう。理想地点を良いとだけしては、理想には辿り着けないのですよね。それ以前の様々があるからこそ、人から見れば理想と言われる姿が形作られるわけです。その経過をおざなりにしてはならないと言うことですね。 僕はだから人を評価する上で持って、アウトプットされ構築された結果のみを評価するというのはいただけないと思っているんですよね。その経緯、経過こそを評価すべきと思っているわけです。金の卵もきちんと育たなければ、金の鳥にはなりはしないわけです。金の卵も、そうでないものも、経緯と経過を大事にして行けば、その先にはそれなりのものが、それなりの姿が待っているわけです。これを将来性とも言えますが、一般的に言う将来性よりももっと原型的な姿、原型的な姿勢、そういうところを評価することが大事なポイントだと思っているんですね。それは自分に対してもそうなんですよね。いや、僕はかなり自分に厳しい人間だと思いますよ、でも自分に厳しい要求もするけれども、自分の器、自分の容器というものも把握しているし(まぁ、最近では自分のそれを超えて周りが評価してしまいますが。自己イメージが霧の時代を引きずっているのかもしれませんね。)、自分の弱さとか、本当に弱いところもある程度把握しているわけです。ですから、今有る形としては評価し得ないとか、理想には遠いと思えても、その長い先に理想を置けるものであるとか、まぁ、理想理想は言っても人間なんだから休憩も必要だよなと、そういう部分での自分の駄目さというものへも評価を向けることをするんですね。もちろん、人にもですよ。先を見て、臨んでいるのであれば、今はどんなにみすぼらしかったり、たいしたことないものであっても、それらをきちんと評価するわけですね。 では、先天的なもの、後天的なものに話を移してみましょう。 引用しますね。 > あと後天的な要因でも本人には仕方がないと書いたのは、もし幼少期の環境が後天的ならそれはもちろん本人にはどうしようもないことだとは思いますが、それ以外にも例えば学校で苛めとまではいかなくともからかわれたりすると重い霧のようなものを持ってしまうもしくは軽い霧を重くしてしまう可能性があるのではないかと思ったからです。 これはその通りだと思いますよ。先天的とかの軽い霧というものも、その後の後天的な経緯によっては重くなるということが、ですね。でも、その、どうしようもないとか、仕方がないとか言うものでもないんですよ。それは、僕は重い霧の被さる中、それらをどうにかして来て、そして積み重ねてきたからですね。意図せずにしてというものであっても、その意図せずしたときから学んでいけばいいわけです。もちろん僕を見ればわかるとおりに、それで簡単に良い結果が生まれるわけではありませんよ。だって、霧自体が晴れるのには30年間もかかっているでしょう。でも、その晴れない中でも僕は小さく小さく、前も語ったと思いますが、薄皮一枚を重ねるようにしてですね、それらをどうにかして来たんですね。そして今が有るのです。その蓄積は、今となってはとてつもなく大きくなっていますし(逆にそのギャップで苦労しているのですが)、そしてそのようにして積み重ねてきたものは自分を裏切らないんです。これが大きな点でしょうね。 伊藤整の青春については、簡単なエッセイなので、文学集とかに載っていたのをコピーしましたね。たぶん日本文学全集だったと思ったのですが、ちょっと探すのは困難かもしれません。その時はまた違う方法でお見せすることも考えてはおりますので、ご希望があればやってみましょう。 人生は積み重ねて積み重ねて、そしてそれらが一気にスパークするようにして成果を見せるような感じで進展するものです。というかですね、一部の世の中の優れた人たちは、そうやって進展を経てきているんですね。だから内田樹先生という論客の登場は、そしてそのブレイクスルー等の論は、遅かった感じもしますが、その脚光を浴びるようになったことは、そのような論が表に現れないという世の中に蓄積されたストレスの反映と見れるんですね。時代のメインストリームが見失って落としていているものが、かえってストレスをもたらしていることに時代は気づいてはいたのですね、それを拾い上げる人の登場がやっと成ったということなわけなのです。 そういうものを拾い上げる作業が、あなたのこれからを探るのに良いと思うんですよね。 いつもながらに語り足りませんが、今回はこれぐらいが良いかと思います。 忙しい中、色々を語ってくれて、ありがたく思います。少しでも良いフィーリングを掴んで行けると嬉しいですね。
すみません、前回の内容では能力主義至上主義のようにも受け取れてしまうので、もう少し補足しましょう。 >自己への客観的な冷静な評価が内省、内観を深めることによってきちんと行えれれば、自分より劣っている人たち、普通の人たち、世の優れている人たちや、歴史的に優れている人たち、そしてその中でもこの世界の理の全景を見渡し得た上で自己の論を展開したごくごく稀な極めての優れた人たち、といった人たちとの間の自分との距離、その中での自分の立ち居地といったものがおおよそにわかるのです。それが適えば、自己への確信性を保ったままに、自己のアウトプットへの懐疑を担保するすることができるわけなのです。 ここにざっと書いた評価軸は思考におけるアウトプット能力においての、と見てもらったほうが良いと思います。主に思考におけるアウトプットをテーマにして書いておりますので、このような書き方となりましたが、人間の価値とはそこには止まりませんので、そこら辺をご留意して読んでもらえると嬉しく思います。 ね、笑顔が素敵な人もいるし、思わぬ発想をする人という魅力もありますし、その人間的な癖が良いなと思える人もいるわけです。人の価値とはそこには止まらないという点はお気を付けて、これからも僕の書くものを読んでもらえたらなと思います。
No.124のものへのお返事となります。 おはようございます。今日も寒いですね。でも、この寒さを工夫してしのいだり、寒さに応じて生活の色々を変えるというところに、またその寒さそのものにも、季節感とその季節を生きている実感が湧いて来るというものですね。今日もお忙しいようですね。僕は転職に転職を重ねているところでして、今日は暇という感じです。 今の世界の見え方は、感情的な主観の入らない主観的な見え方と近いのかもしれないと思いますよ。如何に認知の飽和を迎えたとて、その人に完全な中庸な認知が訪れることはありませんよね。それでそんな状況が訪れていれば、それは仏陀の悟りのようなものが降りてきているということになってしまうことになるでしょう。 仏陀で文章的に良い繋がりになったので、前回の宗教に関するものに付記しておきたいとおもうのですが、”人体の自然と宗教の理は合わない”と書きましたが、これにはお断りを付けておきたいのですね。宗教の中でも、これに適合するのは、現代宗教の多くと とほとんどの新興宗教に、と言えるでしょう。古くから有る宗教の中には、人体の自然の上にその理があるものが逆に大半であると言えるでしょう。ただ、そこまでの理解に至るのには大変な蓄積が必要であるために、一般においてそれが理解に至ることが無いというのが広くある状況と言えましょう。と、この話はここまでです。 ちょっと引用させてもらいますね。 > その後に続く現実への見解につい拝見し、理解は出来ましたが、ではどうすれば良いのでしょうか。 > 最近人と関わるということに関する自分の感情が不安定なので混乱していて本当によく分かりません。 これは今何をすれば良いのか、という問いかけと理解して良いでしょうか。 そういう意味でお応えしますと、以前お話した人間における成長システム、それを踏まえての取り組み方と、それと内観を行いながらの大きな失敗を経ない程度のトライ&エラーの蓄積という取り組み方の融合したものと言えるでしょうか。 まず前者からお話しますと、人間と言うものは、”わからない”というものを適当にシンプルナイズして”わかる”としてしまわないで、”わからない”という大きな揺らぎある概念のままに置いておく、ということの蓄積を重ねておくことで、その後の大小様々な経験の蓄積との化学反応が起こり、ある日、突然にして、それへの大いなる理解が訪れることがある、というものですね。それがブレイクスルーであり、その捉え方を内田樹先生は”中腰の構えで待つ姿勢”と表現します。 つまり”わからない”という混乱を、思案に暮れながらも、そのわからないという混乱状態のままに大事にする、ということでしょうか。もちろん絶えず思案に暮れる、つまり、ああだろうか、こうだろうかを繰り返すのですね。で、ある日その思案から小さい”わかった”を得るのですが、でもそれはやっぱり小さい”わかった”だという予感があったり、なくても”本当にそうだろうか?”と懐疑する状態を担保しておくのです。その懐疑を自己へのある程度の確信性を持ちながらも常に担保させておくという、矛盾性がありますが、やはり自己へのある程度の確信性というものがなければ人は思考的にも精神的にも心的にも人格的にも土台を持てませんので、それを必要としながらも常に自己のアウトプットへの懐疑を持つということなのですが、それを可能ならしめるのが、内省、内観を深めることのよっての自己への客観的な冷静な評価を得ることだと言えるでしょうね。 自己への客観的な冷静な評価が内省、内観を深めることによってきちんと行えれれば、自分より劣っている人たち、普通の人たち、世の優れている人たちや、歴史的に優れている人たち、そしてその中でもこの世界の理の全景を見渡し得た上で自己の論を展開したごくごく稀な極めての優れた人たち、といった人たちとの間の自分との距離、その中での自分の立ち居地といったものがおおよそにわかるのです。それが適えば、自己への確信性を保ったままに、自己のアウトプットへの懐疑を担保するすることができるわけなのです。 もうひとつ、後者でしょうか、内省、内観を行いながらの、大きな失敗を経ない程度のトライ&エラーの蓄積というものは、それすなわち自分の身体、心、精神、エネルギーの所在とその量などとの対話と言えるでしょう。どこにそれぐらいのケアとフォローが必要なのか、身体で言えば、喉がおかしいとがあったら、それにケアしながらも、自分の身体の他の部位とのそれの関係性を探ったり、環境要因との関連性、スケジュールとか、気候、仕事の性質、遊んだ場所などなどですね、心においてもそうであり、精神においてもそうであり、エネルギーの所在と量に対してもそうであります。そして、そこから得られた自分の今現在の見解というものを、それから得られたものからの対応の実行により大きなダメージを負わないと予想ができた場合のおいてのみ、それを試してみるということをし、そして成功すれば、先の成長システムの上に置き、失敗すれば、その原因・理由を探りつつも、失敗へのケアをし、失敗の性質も探るなどなどとなります。 人と関わる上で、感情の不安定故の混乱というのは、本人にとってなかなか大変な状態だと思うんですよね。でも感情の不安定があるということは、感情の反応(リアクション)の形成プロセスに変化が起きていることを示しますし、それはつまり以前よりより良い土壌を形成できる大きな機会と言えますし、もちろん不安定な時であるからこその自己へのより適切なケアが大事であると言えますし、その時期を大事に丁寧に過ごすこともとても必要なことですから、そこは僕も心配するところなのですね。 大事なことは、自分の根底にあるものへの柔かな信頼と、そしてこの世界にある暖かいものへの柔らかな信頼、そういうものを軸にした目線で小さな細々としたものを拾い上げ、集めていくことでしょうか。やはり人にとっては暖かくて柔らかなものが、気持ち穏やかに良いフィーリングで以って、ほど良い自己というものを形成し易いものです。厳しいと感じるもの、感じてきたものがあるからこそ、さらにそのようなものが自分に対して正的なプロセスをもたらすと思ってもらい取り組んでもらいたいと思います。 寒さは心身をひきしめてくれますが、それでも身体に厳しいものであることは変わりませんので、乾燥なども含めて、身体にもお気を付けてお過ごし願いたく思います。 お忙しい中、人生的にも大変なときに、きちんと色々と考えて毎回お返事してくれてありがたく思っております。またまとめて僕の投稿の最後のものにお返事を付けてくださるようになったのも、多投稿な形の僕のものに対してとてもコミュニケーションがし易くなっていますよね。それも良い感じになってきたなと思いますよ。
No.123のものへの返事となります。 今日は調子が良さそうですね。読んでいるこちらも嬉しくなりましたよ。 お忙しい中、また色々とある中、とりあえず連絡を付けてくれて、ありがたく思います。 そうですね、最近寒いですね。寒いというのは、これまた気持ちが引き締まるものがありますし、この時季、この温度だからこそ、木々の紅葉もまた心に染み込むものがありますよね。 そうですか、あなたは東京生まれなのですかね?僕もね、そうあんまり喧騒の激しいところは駄目なのですが、人々の喧騒を見ていると、何だか我が消えて、街に溶け込んでいくような感じがしてね、それが心地良く感じるんですよね。 銀座も銀座の風情がありますし、新宿は道幅が広くて歩き易くて、でも最先端ではないというような落ち着きもあって、でもやはりあの街独特の喧騒はあって、人々の流れを感じると、嬉しくなる部分がありますよね。秋葉原は土日の人の混み具合は、流石に僕は駄目なんですよ。でも、平日に行くと、それも無くて、飲食店の並び方などを見ても、この街の独特さがあるなぁとの思いに浸るんですよね。 バイトの休憩中で、とても爽やかになれましたか、喜ばしいことですよ。僕も嬉しくなりますよ。それはひとつの発見ですよね。新たな自分かもしれないし、今までも有ったけれども見つけられなかった自分の一面かもしれませんよね。 たぶんあなたにはあなたなりの身体とか心のエネルギーの鬱滞の形があるんだと思うんですよね。今、爽やかになったのは、その形のひとつに行き当たったからだと思うんですよ。 人間が生きるということの上には、”流れ”というものがあるんですよ。あなたも自分との付き合い方をこれからもたくさん見付けて行けば、自分なりの幸せの形を見つけられると思うんです。 今の爽やかな気持ち、それを忘れないで欲しいなと思うんですよ。 では、またお待ちしておりますよ。
もうひとつ、コメントしておきますね。 インターネットを見てても、世の中を渡り歩いていても、精神病とか、人格障害とかに関わらず、これは頭がおかしいなと深く嘆いてしまう人はたくさんいますよ。もちろん、精神病者や、人格障害の人にも、そういう類の人はいます。でも、そういうラベルは関係ないんですよね。頭がおかしい人は本当にたくさんいます。これはもう手の付けようがないと感じて、深い絶望感に襲われるような人がね。 そういう人たちと比べれば、あなたは色々を抱えているけれども、遥かに希望が持てるんですよ。そりゃぁ、生きているのも辛いというのはわかるものなのだけれどもね。本当、偲ばれます。 人間の価値って簡単にはわからないものですよ。でも、あなたや僕のようなタイプの人間は、それとどう向き合えば良いかという方策を組み立てられるようになってくると、その頭のおかしくて非道いとしか言いようがない人たちと比べると、遥かに良い生き方を目指せますよ。 僕が語っていることは、そういう価値の部分なのですね。伝わりますでしょうか。僕の言う地獄も見えますでしょうか。
No.122へのものへ、新しく見解が持てました。なるほど、確かに無理を重ねてきてしまったようです。その面からも確かに僕は一線を超えてしまったのかもしれません。 ちょっと面白い話をしましょう。大学時代の元親友の話です。 彼は幼い時に脳にメスを入れるほどの手術を受けていました。そのためか、彼は時々、眉毛から色が抜けたり、戻ったりと、色々がある人でした。彼はその明らかにはされない脳と思われる後遺症障害のために、手術以後から辛い日々を囲ってきたようでした。そのためか、彼は内に渦巻く人間に対するどす黒い感情を押し込めて、表面は適切な対応ができる人として振舞っていました。 ですが、彼の振る舞いにはどうしても感情の産物とは思えない面が表出しており、また知的に並優れていたけれども、テストなどの場では緊張から本領を発揮できないというものを抱えておりましたが、普段からその知に勝る部分が表ににじみ出る人でした。 その彼と比べても、僕の知性は感情に左右されない面があり、彼をしてそれ以上の議論を深めたくないとさせるほどに、僕の知性は、個人としてそれ以上はと恐れるほどの部分にまで、自己への内省ということ行えるタイプでありました。人は己を思う際に、自分に有る悪性の真実までをも見ないことによって、自己というものを安定して保てられるのです。僕はある意味、そのラインまでも自分で超えて考えていくタイプであったということです。もちろん、それで自分を責めることにもなっているのですから、やはりちょっと行き過ぎな人であったのです。 その彼ですが、彼は傍目から見ても疲労困憊で、体調を崩して、顔相青白くなっているというのに、それを自身で感じることができずに、何処も悪くないよと言ってバイトに普通に行ってしまうような面が強くありました。そしてそれは、精神的な苦痛の積み重ね、疲労の積み重ねにおいても、そうであったのです。彼は自分のダメージを感じることができず、自滅することを繰り返していたのです。それは本当の言葉の意味での自滅であったのです。 そして、今回あなたの言葉を振り返って、彼を思い出し、あぁ、僕も彼とは違う意味で自分に無理をしてしまうタイプの人間なんだということに思い至りました。 僕は彼と違い苦痛を普通の人よりも強く感じます。精神的な負担も普通の人よりも強く感じます。僕と彼との違いはそこでしょうね。そして僕は、苦痛も、精神的な負担も感じながら、もちろん彼よりはそれらに屈しているのですが、普通の人と比べると遥かにそのまま無理を行ってしまう人であるのでしょうね。そして、今、何度目かの、限界点に来たということなのでしょう。今までと違う状態で限界点が来たので、ちょっと把握ができていなかったのでしょう。 世の中には、色々な人がいるものです。僕や彼のように、一見すると普通の人と変わりない姿でありながら、その内面におけるものが微妙に違う人間、そういう類の異なりというものも、この世には存在するということなのです。 この普通と違う性質を備える人というものに関しては、まだ他に色々なものがあります。そこへの言及も可能ですが、それがあなたにとって役に立つものであるのか、逆に不安を煽るものとなるか、それはなかなか判じ切ることはできず、語るにも恐れを抱くものであると言えましょう。
伊藤整の”青春について”は読まれたことがあるでしょうか。エッセイのような小編ですが、読まれていなければ、ご一読をお薦めします。 図書館で検索するのが早いかもしれません。
お礼
こんにちは。 今は若干時間があるので書き込ませて頂きたいと思います。 重い霧についてなんですが、私は重い霧を持っていてそれを克服したのであろうという人には会ったことがないのでそのような人については言及出来ませんが、重い霧はないけど適度に苦労をしていてそれを自分なりに受け入れて納得しながら乗り越えて来た人が魅力的だと思います。 そういう人とは何人か話したことがありますが、純粋に羨ましいし、自分とは違う世界というか次元で生活しているように感じ苦しくなります。 人間にとって魅力的なだけが価値ではないのは分かります。 でも私は魅力的な人が好きなんです。 関われば関わる程そういう人とは自分は相応しくないことが分かります。 ごめんなさい、この件についてはかなり混乱しているので、感情と現実が混ざっていて上手く説明出来ないんですが、私はなんていうかその魅力的な人みたいに生きたいというか、彼らみたいに世の中や自分を受け入れて世の中や自分について考えられて、それらに対して色々自分なりに葛藤はしつつも、自分が自分として自然に心地よく生きていけたらと思うんです。 重い霧の先天的・後天的については冷静に考えると仰る通りです。 異なる何人かの著者の本を読んだなのに読んだ本に重い霧のようなものを持つのは幼少期の環境のせいだと言うことが書いてあり、そこには納得しましたが、それだけではなく幼少期以後にそのようなものを持ってしまうこともあるのではないかと思い、幼少期を先天的、それ以降を後天的と表現しましたが、よく考えると何も関係なく生まれ持った性質が先天的でそれ以外が後天的ですよね。 混乱させてしまい申し訳ありません。 しかし、そのような意味で言っても先天的・後天的共に問題があると思います。 あと後天的な要因でも本人には仕方がないと書いたのは、もし幼少期の環境が後天的ならそれはもちろん本人にはどうしようもないことだとは思いますが、それ以外にも例えば学校で苛めとまではいかなくともからかわれたりすると重い霧のようなものを持ってしまうもしくは軽い霧を重くしてしまう可能性があるのではないかと思ったからです。 私にも確信はありませんが、もともと先天的な意味で他の人となんらか違う性質(重い霧の種のようなものでしょうか)を持っていたから、幼少期の環境や成長していくにあたり集団においての環境等によりその性質が助長されてしまったのかもしれないとは思うんですが、それが先天的な面ではないとしても自分が意図せずにしてという点ではどうしようもないのではないかと思っています。 伊藤整さんの著者については一週間程前に図書館で検索しましたが見つからなかったのでまた探してみます。
前記したものが長くなりましたので、今回はできるだけ短く済ませたいと思います。 No.122へのものへの返信となります。 無理をしているというのは、それはその通りです。世の中を生きる上では、多少の自分に対して無理を利かせるということは、それは必要なものです。ただ、状況においては、予期しない無理を求められることがあります。そことどう折り合いをつけるかが、生きる上で、生活をする上で、求められる部分なのです。 折り合いをつけるとは、その無理が恒常的に重ねられるものであるのか、ないのか、ということを探るということでもあります。一日の仕事において、ある程度無理を要する時間は存在するものです。その無理を経ることで、次の機会には無理とならなくすることも、多くありまして、それが”やりがい”ともなっても来ます。 ですから、無理の質を確かめることと、その無理との自分の相性を探ることと、その無理との付き合い方が模索できるものであるのか、ないものであるのか、などを精査する必要があると言えます。そして、明らかにこれは”もう無理”なものであるとか、”今は無理”なものであると判じられた場合、そこに対策を打たんとするのです。こういうのは実際に経てみないとなかなかにわかりかねるものです。ですから、良好に無理を重ねられるところというのが、良い職場であると言えるでしょう。 ”自分に対して無理をしている”、その状態にも多様なものがあります。”言葉の上辺だけを捉えてはならない”とは、よく識者の口にするものですが、そのような感じとなりますが、如何お思いでしょうか。 重い霧が本質的に晴れることは、僕からはあると言えます。僕はもう晴れているからです。今あるものは新たな試練と言えます。今立っている精神的なステージは、それ以前とは明らかに大きく異なるものです。精神的なステージにそれだけにの隔絶を見るということは、身体も、心も、神経系も、違うものとなるということになります。それは当然の帰結であると今は思います。 周りが見えるようになったら、そこにあるのは地獄というのは、今の僕の苦衷を指すものであると思います。ですが、地獄を知るからこそ天国を知るではないですが、それだけものが見えるということは、それだけ素晴らしいもの、良いものも見えるということを意味します。そこから察せられるものは、あなたのような思考の行える人には自ずから知れるものだと思います。地獄=絶望は常に共に生きるものであると思います。突き放すから、深く長く苦しむものであると言えると思います。
お礼
koumosukeさん、おはようございます。 遅くなり申し訳ありません。 認知に関してのお話ですが、そのとおりだと思います。 私が前回にあるがままをと言ったのは実際にあるがまま・・・というよりはよりあるがままに近いもの・・・何といえば良いのでしょうか。 特に目的や関心もを持たずにTVの映像を眺めているというような感じです。 積極的に何かをするとそこにはある程度何らかの感情が入ってしまい、主観的な意見等に支配されそうになるけど、それがほとんどないというような感じです。 漠然とした感情で現実をフィルターを通して流れ往く映像を眺めていて、そこにあまり主観が入らないからあるがままに近いのではないかと自分では感じています。 しかし、今それを考えるとそれにも、様々な要因が働いていて例えばもっと主観的に見てこそそのあるがままに近いものがみえるような種類のものがあるかもしれないとも思うし、よく分かりません。 今まで常に周りと合わずに・・・という件はまさにその通りです。 しかし、そのために出来る限り自分が上手く接することが出来ないであろう人たちと関わるのを避けるようにしてきました・ そのためにコミュニケーション能力といわれるもの等が他の人よりも未熟といわれれば確かだと思います。 その後に続く現実への見解につい拝見し、理解は出来ましたが、ではどうすれば良いのでしょうか。 最近人と関わるということに関する自分の感情が不安定なので混乱していて本当によく分かりません。 時間がなくなってきたので続きはまた書き込ませていただきます。 すみません。
こんばんは、最近東京はとても冷たい気候へと移っております。季節の移行を感じられることは幸せなことだと思います。メタメッセージのない状態では、遅れてもまとまりができつつあるものの方が受け止めやすく、誤解を積み重ね難いとは言える部分がありますので、それも良と言えるものだと思いますよ。(自分で書いておいてなんですが、細かな地域への言及は、多くの目がある中ですので、トラブル回避の意味で、お避け下さい。) まずNo.121のものへ返信したいと思います。 時間を空けるのが怖いというのは、つまり考える時間が空くと、そこから止まらないマイナス思考に支配されるということへの恐怖感ですよね。そして実際に鬱に向かい、身体も幸から離れた感覚に支配される。そこに有ることに対しての存在証明を絶えず行わねばいられなくなる。そういうことだと思います。 我々が今行っているのは内観法と言われるものと近いと思います。実際を資料程度からしか知らないのですが、そうだと思います。 あなたが今回、いや前回から述べられているのは、感情と論理性の分離ということでしょう。もともと論理性に優れたあなたですから、感情から離れられれば論理に優れたものを受け止めるのは容易い。 感情と、論理性(=思考)の分離は、その人の世界の認知の飽和から訪れると思います。飽和、オーバーフロー、色々な表現がありますが、そのようなものではないかと、自分の体験から、そう推察します。 人は認知に際して現実をあるがままそのままに受け止めているかというと、そうではありません。実際にあるものを概念化、簡略化、縮小化して捉え、認知としています。そしてもちろんなのですが、そのやり方と言えるものは個人によって異なります。まったく間違っている方向に向かう人もいますし、よりおおよそに向かうか、より緻密に向かうかという、正しいと言える範囲内での揺れもあります。認知にも深度があるのは前回お話ししましたが、より勝って認知となっているものは、身体化しているとか、皮膚感覚に落ちているとか言います。ですが、この深度で錯誤があることもままあり、その場合塗り替えることが容易ではありません。 たとえば、現代宗教においては、洗脳的プロセスを経るところも多くあり、その場合、価値観がその宗教に都合良い形で歪められて定着化している場合が多々見られるのです。ただ、このような歪んだ形を受容している人たちには、そもそも理解の身体化というプロセスが抜け落ちていることが多く見られるのです。なぜなら身体の自然から離れないと宗教の理説には合い難いからです。ですから、身体に訴えかけるような価値観の再構成が有効とは言える面が強いでしょう。 以前僕が”大学生とは常にそれぐらいのものですが”と書いたのは、綺麗な表現、礼法から少し外れた表現と言える面が強いですが、ただこれは、世間の大学生の経験とは、世界とは、それぐらいであるという認知範囲を指したものであったのです。彼らは本当に未熟であるというのは、僕の域においては実感としてあるものとなります。 ということを踏まえてお考えください。あなたは今まで常に周りと合わないので合わせるということを行ってきており、それでも合わせきれなく、ずれることに苦しみを感じてきており、また合わせるということ自体にも苦しみを感じてきているはずです。そして、常にある自分の何処へ向かうかわからない感情の揺れや、動きや、衝動に関しても、疲労を振り返っても感じないことはなかったのではないかと思います。 では、なぜ、そのようなことが起こり得るかと言えば、己の認知の総体の個性的な展開が見られるからだと言えるでしょう。そしてもうひとつ言えるのは、年齢的、社会的なポジションからもそうと言える、それらの熟成の段階、つまり相対して見れば未熟という位置にあるということ、でしょう。、それが見えるのはコミュニケーションにおけるあなたにおける自然な展開が、周りにおける自然な展開と重ならないということ、そしてそれは感情における自然な展開においてもそうである、ということからと言えるでしょう。 では、それらに自然と応じられるようになるにはどうなる必要があるでしょうか。それはあなたにおける認知と言うフレームワークの拡大進化と言えるでしょう。その前段階として認知の飽和、つまり感情と思考の分離が訪れることが見られるということになります。もうひとつには、あなたが否定感覚的な感情的な蓄積に耐えられなくなっているが故の飽和とも言えるでしょう。それを概してクライシスとも言いますが、その逆である安定と言う均衡状態が保たれた状態にある間は、人はそこからの変化を起こそうと自発的なエネルギー、というよりも、自発的な身体から発する衝動を持ち得ませんので、望める範囲で良好にそのクライシスを経過させることが大事なことと言えるでしょう。 というのが、現状への見解となります。 重い霧に関しての話しに触れましょう。 重い霧を有している人と、いない人がいるというのは、事実です。そして、その重い霧を有することなかった人も魅力的であることがあるというのは、その通りであると思います。 そこにひとつ付記すると、まず、人間において魅力的であるということが、価値とすべきすべてではないということであります。魅力が薄くても価値のある人というのは当たり前に多くいるものです。そして、重い霧を有することなかった人の保有する魅力と、重い霧を有しながらもそこから抜けた人の保有する魅力、という点から見ると、そこには決定的とも言うべき大きな違いがあると言えるでしょう。”実体験”という言葉がありますが、それを経た人と、経ない人が保持しているものは自ずから異なるものとなります。 先天的、後天的という面で言えば、幼少期の環境は、僕の理解から言うと、それも後天的なものとなります。つまり、あなたの言う、先天的と後天的が明らかに重なっているというものが、あなたの状況にあるということに間違いは無いと思いますし、明らかに人と違う素養を備えて生まれてきているということになると思います。 ここであなたの論は少し手詰まりな感じになると受け止められるのですが、先天的なものは今さらどうしようもない、というのは一般的であると思うのです。ですが、なぜ、後天的なものも今さらどうしようもないと続くのでしょうか。そこが知りたいなと思います。 重い霧のある人と、ない人について、もう少し考察を及ぼしたいと思います。重い霧が自我に目覚めた頃からある人、というのは、人が持てるポテンシャルを超えた部分を有してその時点に有ったからではないかと思うのです。人間の感覚から認知へと変換するシステムにおける能力は生後からどんどんと発展していくものですが、稀にと言うには多く、その年齢では受容しきれない感覚入力を備えた人が生じます。そこからにおいてのボタンの掛け違いで、大きく重い霧を背負うか、あるいは小さくそれなりの霧を背負うかが分かれるのではないかと思います。 今回はここで止めておき、あなたの中での推移を見守りたく思います。 僕への返信は、無理して間に合わせようとはしなくても良いです。返さねばとプレッシャーを感じたときは、”返す”ということから一時離れることを自分の望むような形で行ってもらえると良いかと思います。
お礼
kumosukeさんこんにちは。 最近は寒いですね。 確かに寒いけどとってもきれいですよね。 季節を感じると言うことはそれがどんなものであれ幸せだと思います。 私は東京が大好きです。 銀座みたいに綺麗な人ばっかで入りづらい雰囲気の街も好きですし、新宿みたいに色々なひとがいるところ、アキバみたいに独特の人やお店が多いところとどこも好きです。 というかまた遅れてしまい申し訳ありません。 やらなきゃいけないことがいっぱいあるんだけど、何もやれなくてでも時はすごく早く流れて行くんですね。 今はバイトの休憩中ですごく、なんでか分かりませんが今はすごく爽やかな気分です。 お返事書きたかったんですが無理そうです。 出来るか、というかやるかはわからないけどやらなきゃいけないことに縛られているので、また暫くかけないかもしれませんが、一週間程すれば一番嫌なことは終わるのでまた書きます。 とりとめのない文章ですみません。では
たびたび、すまない。 僕はスロットルを緩めることにしたよ。30年間必死でやってきて、それを抜けてもここ数年、無用に鞭打たれてきた。ちょっと心の弾力性が失われてきている。踏ん張りが利かなくなってきている感じだ。 人生は思っているよりもずっと長い。 あなたも新卒採用が目の前で焦りはやる気持ちでさらに大変になるところがあると思われるが、すこし気を抜くような方策もあるのじゃないかと思う。志望していた金融は、リーマンショック以降、崩壊の一途にあるしね。ああいう実体の無い利益システムは、いずれそのような道に向かうのではと思っていたが、ここで一気に崩壊とは思わなかったよね。 遅れに遅れている僕の人生なのだが、しょうがないという感じですよ。では、また会う日までお元気で。
お礼
kumosukeさん、こんにちは。 今は電車のなかで若干時間があるので書き込ませて頂きます。 kumosukeさんの仰っている心の弾力が失われてきたとか踏ん張りが効かないというのは無理をしてるからなんじゃないですか? 無理って言っても他人に対するというよりもあなた自身に対して無理をしているんじゃないんでしょうか? 本当に本質的に霧のようなもやもやが晴れることはあるんでしょうか? 周りが見えるようになったらそこにあるのは本当の地獄なんじゃないでしょうか。
お礼
Kumosukeさんこんばんは。 三連休は予定はないけど忙しそうです。 私があなたに自分に対して無理をしているというのは言葉どおりというか、自分を大きく偽って生活しているんじゃないかと思ったからです。 やはり、曖昧な表現ですね、すみません。 色々な人がいて色々な事がある中で生活する上で無理をすることが必要なのは分かります。 でも、なんと言えば良いのでしょうか、自分の限度を越えて、なおもそれに気付かない振りをしながら生きているのではないかということです。 あと、No127にあった頭のおかしい人についてなんですが良くわからないんですが、どういう人をさしているんでしょうか? あと、私の想定している地獄というのは自分が原因で現われる地獄についてなんですが、kumosukeさんの仰るそれはまた別物ということですよね? ごめんなさい、本当に良くわからないんです。 No129についてなんですが、どうすれば良いのかという問いに対し答えて下さった内容を理解は出来ました。 しかし、私にはひどく難しいことのように感じます。 私には何か一つのことに混乱があるとその程度にはよりますが、それが自分にとって重要だと感じられるものであればあるほどそれをどうにかして解決しようと躍起になり、そのせいなのかそのような時は普段にもましてマイナス思考だからなのかはわかりませんが、他の悪いことも相関関係を持ってるように感じてきて思考できなくなります。 それは、とても苦しいことです。 それをトライすればするほど苦しくなります。 私は生きてるのは忍耐だといったと思いますが、死ぬことは勇気だと思います。 死ぬことは怖くありません。ただ死ぬまでのことを想像すると怖いんです。 でも、最近これなら上手く出来るかもとも思いましたがやっぱり怖いんです。 私はなんで怖いんでしょうか。 死にたいと思って本を買い、確実に出来そうな方法も見つけたのにまだ怖いんです。 私は生きることに対して未練があるんでしょうか。それとも本当はただ怖いだけなんでしょうか。