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余吾善右衛門はたそがれに勝ちを譲ったのか

名作「たそがれ清兵衛」の中で、余吾善右衛門と清兵衛の壮絶な決闘場面がありますね。 清兵衛が最後に勝ちますが、善右衛門は勝ちを譲ったのでしょうか。長い決闘の末、彼が振り上げた刀が天井の梁にかかったところで決着がつきます。 初めは清兵衛の強さと作戦勝ちと思っていましたが、何度か観るうちに、善右衛門の優しさをみごとに描いていると感じるようになりました。 映画には全くの門外漢ですのでお教え頂きたいのですが、あの場面は、映画愛好家の間ではどのように解釈されているのでしょうか。併せてあの場面について、参考になる論評などご存知でしたらご紹介いただきたいと思います。

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  • ベストアンサー
  • icemankazz
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回答No.2

どうも今晩は! 『たそがれ清兵衛』は私も数回観ましたが、ご質問にあるような印象は受けませんでした。 勿論、映画の解釈は人それぞれですし、私の考えを押しつけるつもりもありませんが少々、述べさせて頂きます。 まず、立ち合いの前に清兵衛が余吾善右衛門に逃げるように薦めますが、これを断わりますよね。 彼は逃げ延びることよりも、武士として正々堂々と戦うことを選んだ訳です。 そして、それは勝ち負けに関係ない、武士のプライドを賭けての真剣勝負だったと思います。 やはり余吾が勝ちを譲ったのではなく、激しい死闘の末に偶々、清兵衛が勝ったに過ぎないのではないでしょうか。 また、映画『たそがれ清兵衛』は故藤沢周平氏の作品を原作にしていますが、同名の『たそがれ清兵衛』(新潮文庫)だけでなく、『竹光始末』(新潮文庫)と『祝い人(ほいと)助八』(新潮文庫『たそがれ清兵衛』に収録)の3つからなっています。 特に宿敵、余吾善右衛門の名前やクライマックスの決闘シーンは『竹光始末』から取られていますが、あくまでも真剣勝負として描かれています。 もし、興味がおありでしたら、一読をお薦めします。 ↓こちらのサイトもオススメです。 http://www.tasogareseibei.com/tasogare/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%9D%E3%81%8C%E3%82%8C%E6%B8%85%E5%85%B5%E8%A1%9B#.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.BC.E3.83.AA.E3.83.BC ご参考まで

参考URL:
http://www.shochiku.co.jp/seibei/
tukusima
質問者

お礼

有難うございました。 ご紹介のサイト大変参考になりました。 特に、松竹の初日の挨拶レポートと記者会見模様は興味深く読みました。全くこれまで知らなかった田中泯さんという人のことが分ったのも大変な収穫でした。 原作については、わたくしも読み直しましたが、「祝い人」は読んでいません。早速読んでみたいと思います。 わたくしの解釈はどうもひとりよがりな勝手なものという気がしてきましたが、映画の解釈は人それぞれと言って頂き、永年の疑問、気持ちに整理がつきそうです。感謝!

その他の回答 (2)

回答No.3

こんにちは。 この映画は私も好きですが、あの決闘をそんな風に考えたことがなかったのでご質問、ご回答、興味深く拝見しました。 私が考えるに、余吾善右衛門のキャラクターから言って、対戦相手に温情を見せたり勝ちを譲るなどという行為は返って相手を愚弄することになるのでは?と思います。 あの二人が決闘に至った経緯を観ても温情を見せるというのは不自然です。 はじめ二人は戦う意志がなかったのに、清兵衛が自分のことを語るつもりで明かした「実は竹光」という言葉に余吾善右衛門が「貴様儂をなめとるのか?」と思わぬ反応を見せ、清兵衛の意に反して決闘になだれ込むというものでしたね。 勝ちを譲るとか思う人なら初めに言っていたように戦わずに逃げたでしょう。余吾善右衛門は生きたいし清兵衛ほ戦いを避けたかったのですから。 ただ、面白いのは、決闘が始まってすぐ、余吾善右衛門は清兵衛との間合いを計りつつ、周りの障害物にもちらちらと目をやり、自分の太刀さばきの大きさを常に考えながら間をとっていることで、もしDVDをお持ちなら確認して欲しいんですが一瞬例の鴨居にも目をやって念頭に置くシーンがあるのです。 つまり彼の剣が鴨居にかかることは計算外のアクシデントではなく、十分承知していたけど、戦いの流れの中で一瞬失念してしまった結果やられてしまったという風に感じました。 余吾善右衛門を鴨居にまで気が回らない程度の人ではなく、本当はそこまで計算できる使い手であることを、一瞬の目の演技だけで判らせるのはさすがに山田監督の演出だなあと感心させられました。

tukusima
質問者

お礼

あの状態のなかでは余吾にとって逃亡の成功は極めて難しく、仮に夜陰にまぎれて逃亡するなどで成功したとしても長い流浪の末につかんだ幸せを失ってしまった彼には、先々、清兵衛を罪に落としてまで生きるだけの価値は人生に見出せない。彼のために死ぬことこそ自分の生きる意味があると考え決断をしたと考えたい。 清兵衛という若い侍の人間性を知った余吾にとっては、竹光は余吾に最後の選択をさせるに最高のきっかけを作ったように思われるのです。 ゲンダイの目で見ると、二人にとっても観客のわれわれにも、どちらかが死ぬことになる決闘などバカげた行為です。決闘に必然性というか観る者を納得させものがなければ紙芝居です。納得させられて、このような掲示板であれかこれかと観た者を悩ます映画は凄いですね。 >つまり彼の剣が鴨居にかかることは計算外のアクシデントではなく、十分承知していたけど、戦いの流れの中で一瞬失念してしまった結果やられてしまったという風に感じました。 >余吾善右衛門を鴨居にまで気が回らない程度の人ではなく、本当はそこまで計算できる使い手であることを、一瞬の目の演技だけで判らせるのはさすがに山田監督の演出だなあと感心させられました。 余吾の一瞬の目の動きがありましたか。よくそこまで見て取られましたね。こんどよく注意してみてみましょう。 剣の達人である彼は、いずれ追っ手が来る日を予測し、狭い家のなかでの戦い方を考え抜いていたはずだと、わたくしも思っておりました。おっしゃるとおり彼は鴨居のことも十分承知していた。鴨居に刀がかかることを一瞬瞬失念した結果というより、失念したい気持ちがどこかにあったのではないでしょうか。刀を鴨居にかけ、清兵衛を待った・・一瞬待ったような感じが映画を観たあと、ずいぶん時間が経過してからですが湧いてきた(創作した)自分がいます。本当に相手を倒すつもりなら刀を手から離し・・などと想像がどんどんと膨らんでいきます。映画ってよいですね。 みなさまのお答えとお教えいただいた資料をもとに、この映画をもうすこし楽しみ、反芻してみたいと思います。大変有難うございました。

  • mat983
  • ベストアンサー率39% (10265/25670)
回答No.1

勝ちを譲ったようにも見えますが、 随所に「生」への異常な執着ぶりを見せていましたので、そうではないと思います。 下記サイトはこの場面はありませんが、監督のこの映画についてのインタビュー記事があります。 http://home.catv.ne.jp/hh/boston/appendix1.htm 山田洋次監督との対話 映画『たそがれ清兵衛』によせて

tukusima
質問者

お礼

早速のご回答感謝します。 ご紹介のURL大変興味深く読ませていただきました。 対談のなかに岡村氏の「余吾と清兵衛というのは、あるひとりの人間のような気がしてきた」、山田監督「寅さんとさくらだってひとりの人間と言えるんですよ」というくだりがありました。 あの決闘を観た者があれをどう解釈するか、この辺に一つの鍵があるように思いました。 >随所に「生」への異常な執着ぶりを見せていましたので、そうではないと思います。 「生」への執着、この点もこの映画の主張したかった点でしょうね。映画にあまり教訓を求めては邪道とお叱りを受けるかもしれませんが、命の尊さをとことん大切にしろというメッセージでしょうね。あの状況のなかで、その命を大切にした結果の答があのような余吾の最後となったかとmat983とは反対の解釈を勝手にしたい気持ちが強くなり、思い出してあらためて感動しております。 このような投稿を初めてした者です。大変よいことをお教えいただきました。

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