- 締切済み
信仰とはどんな感覚なのでしょうか?
自分は無宗教です。信仰に対して理解が乏しいですが、宗教を持っている人とうまく接していきたいので理解を深めたいと思います。 宗教を持っている人はむしろ多数派ですし、信仰心というものを持ったり神仏や宗教指導者を崇拝する性質を多くの人間が持っているのは疑っていません。自分も本当に追い詰められた時に「神に祈る」という精神状態になったことがあります。ただし、それは現存する特定の宗教の神仏ではありませんでした。 宗教指導者や教典にはまったくあこがれやありがたみを感じません。善悪や正義、愛といった価値観は宗教がなくとも養えるものであり、逆にそうした倫理の根拠を宗教に求めることで柔軟性を失ってしまうことには危機感すら感じるので、自分は受け入れることは出来ません。また、科学が世界の仕組みを明らかにしていく上で、宗教に基づく説明、たとえば「お空の上には神様がいる」といった説明がまったくウソであることが判明してしまったりして余計に信用に足らず、ありがたいどころか真実を見失わせる胡散臭いものとしか感じられません。そのためか、自分には信仰という感覚がまったく理解できません。信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか?とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? どなたからの回答も歓迎いたしますが、「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」といった方のコメントを特にお待ちしています。
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
みんなの回答
- iouka
- ベストアンサー率25% (8/31)
>「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」 私はこの両者のどちらでもありませんが、Foxtrot_OWさんと同じ事をずっと考えていたので回答させていただきます。 私の周りには宗教活動をしている人が多いのですが彼らと話をしていて感じたのは、多くの人たちはそんなに難しいことを考えて入信したわけじゃないのでは?ということです。 ・小さい頃から親に一方的な宗教観を教わった というタイプと ・悩みがあった時にたまたま解決に向かったきっかけとなったのがその宗教だった というタイプがほとんどだと思います。 前者はいわゆる二世ですので、自ら信仰したいと思った人は後者がほとんどではないでしょうか。 自分の悩みを解決してくれる存在というのはとても大きなものです。その存在のことをもっとよく知りたい、その団体を作り出した人のことを知りたい、その団体の教えをもっと知りたい、その団体の為に尽くしたい、と思うのは自然な流れかと思います。 そう思っているうちに、どんどんマインドコントロールされていくのが宗教なのではないでしょうか。 無宗教の人間から見れば“正しい宗教”なんてあり得ません。たかが人間が作り出したものですし、宗教のために殺戮を犯す人間だっている・・その宗教者たちだって自分たちの宗教を正しいと思っているのですから・・こんな恐ろしいものはありません。 ですが、一宗教に没頭している人にとっては「私たちの教えが最も正しい。他の教えは間違っている。間違っている教えを信じている可哀想な人たちを救ってあげましょう」という考えを日々叩き込まれるわけですから。しかも、それを自分の悩みを解決してくれた団体が言っているとすれば、その教えを信じてしまうのも納得できるのではないでしょうか? 宗教団体は日本の中にも数多くあります。その全ての宗教を勉強してどの宗教団体に属するかを決める人なんてほとんどいないでしょう。いたとしてもごくわずかだと思います。つまり、「何故、自分たちの宗教が正しいと言い切れるのか?」という質問はきちんと勉強してきた“ごくわずかの人間”にしか答えられません。ほとんどの信者に対してこの質問はナンセンスです。結局のところ、どんな教えでもいいんですよ、最もらしいことが書かれていれば・・。宗教の教えはどれも良いことが書かれています。とても受け入れやすいものばかりですし、何か「生きる道しるべ」みたいなものを求めている人にとっては理解しやすいものです。 信者側からの回答じゃなくてすみませんでした・・。Foxtrot_OWさんの質問は私にとってもとても興味深いものです。今回は私の推測で回答してしまいましたが、信者の方からの回答がもっと増えることを期待しています。
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
現在、創価学会の壮年部として席を置いている者です。 はじめに、宗教というものには、その教義において高低浅深があり、ただ単に○○宗というお寺の檀家になるとか、神社・仏閣に詣でるとかいう具合に、世間一般的な認識の範疇で宗教者であるとか、無宗教者であるとか論ずるべきではなく、本来、人間の持ちうる生命の変革に課題を置くべきものだと考えます。 >信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか? ・基準を持つという事です。 人の心というものは、先の方が仰るように様々な縁に触れ、絶えず変化しているものです。そこに基準を持つ事でより良い生命状態へと自己を変革しゆくものです。 >とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? ・日本という国自体が、宗教ということに対して、何の基準も持っていないのですから、正しい宗教教育が国民に施されないのは当然であり、多くの人間が無理解になるのも当たり前のことであると思います。 また、今までの人生において、正しい宗教に巡り合えないでいる衆生なのかもしれません。 多くの仏説には方便という教えがあり、何かに例えて真理に導くという方法もとられています。それを表面的に真実と捉えてしまえば、胡散臭く思えたり、信じがたい話にもなるでしょう。 しかしながら、高等宗教では、個々の生命状態と大宇宙に存在する生命との因果関係を説き、本来の生きるべき指標を与えてくれます。何の為にこの世に生を受け、何の為に苦労をしたり、何の為にどう行動したり、自身の生命状態の変革によって、善のリズムに変えていくことが出来るのです。 そういった生命哲学の教えが、数千年前から厳然と存在するのをいったいどれくらいの人が認識しているのでしょか。ただ、その教えは真実であるがゆえに、人間の傲慢さやエゴや欲などによって、存在する事を許されず、迫害されてきました。真実とはそういうものです。
補足
>基準を持つという事です。 これはとても納得できました。信仰を持つ方がその教義を日々の指針にして生活していることにも合点がいきます。 >多くの仏説には方便という教えがあり、 これはたいへん興味深いです。よろしければ、表面的に捉えると胡散臭く思える方便とその真意の例を挙げて頂けると嬉しく思います。 「縁」や「衆生」といった(フランス語じゃないほうの)仏語らしき言葉がでてきて、通俗化した意味しか知らない自分にはちょっと正確な意味を把握するのは難しいです。できれば一般的な言葉でお話くださるとわかりやすくなるので嬉しいです。「生命状態」「善のリズム」といった言葉も抽象的で、それが何を指しているのかわかりませんでした。 >その教えは真実であるがゆえに この質問の核心はまさにそこです。「なぜその教えが真実であるといえるのか?」それこそが自分の知りたいことなのです。それは教えを信じていない者にも理解できる理由のはずです。なぜなら、その教えを現在信じている方は、教えを信じていないときにその根拠を知り、その根拠に基づいて教えを信じるようになったはずだからです。頂いたご回答には残念ながらそれが書かれていません。非常にもどかしい思いです。ぜひとも教えていただけませんか? >真実とはそういうものです 真実への迫害は歴史上何度も繰り返されてきたことですが、迫害されていることや遥か昔から存在することが真実である根拠にはもちろんなりませんから、そこを是非とも省かないで教えて頂きたく思います。
- wsws
- ベストアンサー率9% (256/2568)
まさにこの「教えてgoo」にすがったのですよ。 これですよ、縁です。 回答があればそれを連鎖していくのです。 これが信仰です。 根拠無くとも共感する信仰なら心地よいのです。 ウソ不具合も相殺できるのです。 質問者様への回答も多数来るでしょうが一つでも納得できれば良いのです。 全てを一度に解消する必要はありません。 一歩一歩、理解をするのです。
お礼
ご意見ありがとうございます。 ううん……なんだか意味深なことをおっしゃいますね。ご回答の意味はよくわからないですが、一歩一歩理解をしていこうと思います。
- 1
- 2
補足
信者の方でなくても興味深いご意見をいただけて、たいへん嬉しく思います。 >悩みがあった時にたまたま解決に向かったきっかけとなったのがその宗教だった 実際に宗教が問題解決に結びついた例は少ないように思えます。自分の知人である信者は大きな悩みを持っているときにその宗教に入信しましたが、入信後もやはり悩み続けています。宗教は問題解決に役立ってはいないようで今も悩み続けていますが、だからといって宗教活動を止めてはいません。 自分も生きる意味や目的を探し続けている人間ですが、宗教的な教えにはさっぱり魅力を感じません。宗教が解決に繋がるとは到底思えないからです。「悩みを解決するために念仏やお祈りを唱える」のは「トーストが食べたいからご飯を炊く」ぐらい目的が達成できそうにないように思えます。「アダムとイブ」や「輪廻」などファンタジーもいいところです。それなのに信者の方と話してみると、普通に会話ができるし思考が解体しているようにも思えません。また、難しいことを考えず投資するには、宗教は時間的、金銭的および精神的なコストがあまりに大きすぎます。信者の方と自分には思考過程になにか根本的な違いがあるのでしょうか。 >どんな教えでもいいんですよ、最もらしいことが書かれていれば 信者の方はその教えに従って他の宗教を否定することがよくありますが、他の宗教にももっともらしいことが唱えられているわけです。そこで自分の宗教だけを尊重する理由がそれでは説明しにくく思えます。……というか、もはやそういう論理をはるかに超越しているのかな? >ほとんどの信者に対してこの質問はナンセンスです ナンセンスでも構いません。信者の方がどう考えどう答えるか、ということに興味があります。「疑うよりまず入信してみなさい。そうすればあなたにもわかるから」とか言われて、誤魔化されちゃうのでしょうか。