イエスの指し示した経験行為とは 脱ナラワシ?
聖書のイエスの話ですが ここでは そのイエスが指し示したおこないをめぐって その経験行為のみを問題とします。
たとえば 《愛》と言っても 必ずしも自明ではありません。
▼ (マルコ福音 12:30) 『・・・心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(申命記6:4)』。
☆ そして
▼(同上 12:31) 『隣人を自分のように愛しなさい(レヰ記9:18)』。
☆ ここから どんな具体的な経験行為を思い浮かべるでしょう?
《神》は おのれの主観の内にしか見い出しがたいのなら その神をどのように愛するのか?
《自分を愛するように隣人を愛する》とは それが《神を愛する》ことと同じことだとすれば いくぶん具体的になってくるかとは思われる。けれども 自分の考えるところによって 自分を愛するように隣り人をも愛する――このようにしてすすめばよいのか?
世に《ケノーシス(自己無化)》という言葉があります。それは 聖書の文章としては 次のくだりから出ているのだそうです。
▼ (ピリピ書 2:6-8) ~~~~~~~~~~~~~
6: キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7: かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、
8: へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここからふと思ったのですが このイエスの存在のあり方が指し示すことは どうも《自己無化》というよりも・そして先ほどの《愛》の主題を考え合わせても 《脱自・自己脱出》というようなことではないか?
これは 何の脈絡もなくひらめいたものです。そしてこの脱自のさらに具体的な内容はと言うと それは どうも既存の社会にあって そこからは抜け出ることなく しかもその既成の慣習から自由になること。これではないか。
おのれを 従来のナラワシから自由な姿として――その姿の想像だけとしてでも――えがくことが出来るか?
ナラワシを否定するというよりもそこからまづ自由な場に身を置くこと。この想像上の世界から 話は始まるのではないか?
要領を得ないのを承知で ひとまづ このように問うてみます。
補足
誰に何をどう指摘して、どう正当化されたのですか?