ANo.6の者です。
>感覚的に受ける事というのも大事なのではないでしょうか。
>これが宣伝文句だとしたら、何のインパクトも与えない事になります。
>そこにもうちょっと工夫の余地はないものかと。
「感覚的に受ける」という言葉の内容が何を指しているか、もうひとつわかりかねますが‥‥一般的にいって、現代のようなメディアによる記号消費が高度に進んだ社会では、個別の「宣伝文句」のクオリティはほとんど問題になりません。
ぶっちゃけて言えば、どんなダサい凡庸な言葉でも、それを流布するメディアの戦略によって「名文句」に仕立てる事ができます。
不特定多数の人々にウケルような(流行語大賞の候補になるような)言葉は、それ自体のクオリティーではなく、その言葉が流布するメディアの活動によって浸透しているに過ぎません。一昨年の流行語大賞が何でっあったか、その前年は何であったか‥‥即座に答えられる人はほとんどいないでしょう。かつて盛んにもてはやされたコピーライターという人たちが作った「言葉」が、今現在、どれくらい生き残っていますか。
「宣伝文句」などというものは、しょせん、その程度のものです。
伝統的宗派の各教団が色々な媒体を通して表明している「言葉」は、おそらく、そのほとんどが信者獲得や寄付の増加を狙った「宣伝文句」とは考えられていないでしょう。世の中の大多数に欠けているもので、その教団が大切と考えるものを奨めるものであって、それは「呼びかけ」であり「教え」であるわけです。
それが、特にひびかない人には別にひびかなくてかまわないのです。その言葉にひびく人が、その宗教を必要としている人なのですから、そこに「縁」は生まれます。
「縁」があれば無限の距離を超えて引き合うものですし、「縁」がなければどんなに密接していても交わることはありません。宗教とは、そういうものではないでしょうか。
お礼
「質」を問わないメディア戦略によって、流行を捏造するという事は納得いたします。しかし、その商業主義と、宗教活動を一緒にしてもいいのか分かりかねます。あるいは、「質」を問う流行語(この場合流行語とは言わないかもしれません)というものにも、いつか存在価値が当たる日が来る、あるいはよみがえるのではないかと思っております。例えばプロの詩人の作った、技巧内容の詰まったものですね。 「スポーツカーに乗ろうと思う」とか。 ようするに、その種のインパクトが不足しているというわけです。その種のインパクトは不要であるか無益であると考えられている節があるのでしょうか。技巧内容に響かない人が多いのか少ないのか。そして凡庸さに響く人が多いのか少ないのか。