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宗教の宣伝文句の凡庸さ
時々耳目に入る、宗教関係の宣伝文句のようなものが、ひどく輝きがないというか凡庸な感じがいたします。謙虚さと思いやりとか、当たり前のことじゃないかというものばかりで、うんざりしています。なにか偽善的な作り笑いのようなものも妄想します。なぜもっと直接的な表現をとらないのでしょうか?
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- sgm
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ANo.6の者です。 >感覚的に受ける事というのも大事なのではないでしょうか。 >これが宣伝文句だとしたら、何のインパクトも与えない事になります。 >そこにもうちょっと工夫の余地はないものかと。 「感覚的に受ける」という言葉の内容が何を指しているか、もうひとつわかりかねますが‥‥一般的にいって、現代のようなメディアによる記号消費が高度に進んだ社会では、個別の「宣伝文句」のクオリティはほとんど問題になりません。 ぶっちゃけて言えば、どんなダサい凡庸な言葉でも、それを流布するメディアの戦略によって「名文句」に仕立てる事ができます。 不特定多数の人々にウケルような(流行語大賞の候補になるような)言葉は、それ自体のクオリティーではなく、その言葉が流布するメディアの活動によって浸透しているに過ぎません。一昨年の流行語大賞が何でっあったか、その前年は何であったか‥‥即座に答えられる人はほとんどいないでしょう。かつて盛んにもてはやされたコピーライターという人たちが作った「言葉」が、今現在、どれくらい生き残っていますか。 「宣伝文句」などというものは、しょせん、その程度のものです。 伝統的宗派の各教団が色々な媒体を通して表明している「言葉」は、おそらく、そのほとんどが信者獲得や寄付の増加を狙った「宣伝文句」とは考えられていないでしょう。世の中の大多数に欠けているもので、その教団が大切と考えるものを奨めるものであって、それは「呼びかけ」であり「教え」であるわけです。 それが、特にひびかない人には別にひびかなくてかまわないのです。その言葉にひびく人が、その宗教を必要としている人なのですから、そこに「縁」は生まれます。 「縁」があれば無限の距離を超えて引き合うものですし、「縁」がなければどんなに密接していても交わることはありません。宗教とは、そういうものではないでしょうか。
- lv4u
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No.4です。 >>直接的というのは、抽象論ではなく、実践論と申しましょうか。もっと宗教のダイナミックな脱日常的なことです。 宗教をやっている方で、脱日常的な体験をされるかたは、わりといらっしゃるようです。でも、そういう体験は同じ宗教を信仰している信者さんでも、「えーー、ほんとかよ。平凡なあんたにそんなことが・・疑わしい」って思われる方もいらっしゃるようですし、体験した本人でさえも「あれは夢、幻覚だったのではないか?」って考えてしまうことがあるようです。 また、そういうことを公言しますと、脱日常的なことを期待されて信者になる方が増えるかもしれません。でも、誰でも簡単・お手軽に体験できるわけないので、がっかりすることになりますよね。実際にあったって証明ができる事柄でもないですし。 なので、そういうことは、あまり大声で言わないのだと思います。(言っちゃうと、有り難味が薄れると思っていたりして・・・) >>仕事が絶好調で宗教が背後に引いてしまう道理がない。不幸と宗教が一体化するのは、なんとも的外れではないかあるいは、宗教の冒涜ではないかと感じています。 まあ、そのとおりですが、宗教は「この世」ではない「あの世」を価値判断の基準にしています。でも多くの人は、「お金・地位・名声」などの「この世」の価値を第一に考え、行動します。 この価値観の部分は、いくら議論しても簡単には変わりません。「仕事が絶好調」「恋愛絶好調」なとき、何を言ってもダメだと思えます。 例えば、上場企業で売上げ絶好調の唯物論を信じる社長に、今年入社の新人女性が、いくら宗教のことを言っても無駄でしょう。でも、社長を除いて、家族全員が事故で死亡したときには、新人女性の語る「あの世の話」を聞いてくれる可能性が大きくなると思われます。 >>苦しいときに凡庸では、なんとも救いようがありません。教えが現代に?対応できないのでしょうか。 苦しいときは、普段聞くと凡庸なことでも、違って聞こえると思いますけど。ただ、教えが現代に対応できない部分はあると思います。ちいさな部落、小都市で自給自足で生きていた時代と、当時の人から見れば魔法のような携帯や家電が溢れかえって、世界のできごとが一瞬で伝わる時代では、根本の教え(命は大切に等)は同じだとしても、各論では変わってくると思います。 キリスト教の「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。」はどの時代でも変わらないとしても、もっと生活に密着する具体的な事例を宗教でどう判断するか?ってなると「現代の社会環境を教祖は知るよしもなかった」ってことで、対応できなくても、それを責めることは可哀想だと思います。
お礼
どうしても宗教っていうのは、「苦しいときの神頼み」という側面というか主流があるのですね。そこが、宗教本来が望んだ事ではないと思うのですがどうなのでしょうか。 それにしても、CMのキャッチコピーとしてはまったく通用しないような凡庸さが流布するという事、やはり納得いきかねます。せっかく説明していただき済みませんです。 しかし、脱日常性が体験できるなら、それを大々的に使ってもいいと思いますね。もちろん表現は十分考慮しますけど。
- michael-m
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私は、むしろ派手であったりインパクトがあったりする方が、怪しいと感じますが…。 元々は、ヒトの本来の生き方、つまり「当たり前」の事の実践を目的としているのですから、派手であったり奇抜である必要はないのでは? 逆に言えば「当たり前」の生き方が出来ないから必要なものでもあります。 足りている人が見ても何も感じませんが、暗中模索の人が見れば輝いて見えるのです。
お礼
暗中模索の人用なのでしょうか?という事がどうも腑に落ちていません。
- sgm
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曹洞宗の僧侶です。 宗教の言葉が「凡庸」に見えるのは今に始まったことではありません。 たとえば、禅でいえば、白楽天と道林禅師のエピソードが有名ですね。 唐の時代、道林禅師に参禅した白楽天が「仏の教えの大要とはつまり何でしょう」と尋ねると、道林禅師は「悪い事をせず、良い事をするように心がけることです」と答えました。 高僧らしい名言を期待していた白楽天が幻滅して「そんなことなら3歳の子供だって言うでしょう」と言うと、道林禅師は「3歳の子供でも分かる事ですら、たとえ80歳の長老になっても実践する事は難しいのです」と答えました。 自分の軽率さを恥じた白楽天は礼拝して去ったといいます。 人間は頭が良すぎる一方、残念ながら眼球は自分を見る事ができるような付き方をしていないので、自分の事を省みず、他人の事を頭の中だけであれこれ批評します。時々、他人から自分の姿を指摘されてドッキリしたり、不機嫌になったりします。 「時々耳目に入る、宗教関係の宣伝文句のようなものが、ひどく輝きがないというか凡庸な感じがいたします。謙虚さと思いやりとか、当たり前のことじゃないかというものばかりで、うんざりしています」というgarcon2000さんの言葉もまた、他の人の目から見ると「凡庸」で「うんざり」するものに見えているかもしれません(これは批判ではなく事実として、現に私にはそのように見えます)。 ほとんどの宗教では、その理解には体験的実践を必要とします。個別の実践による個別の体験は、たしかに「直截的」なものですが、それを他人に余すことなく伝えるには人間の言葉は抽象的すぎます。一人ひとりが体験した理解を、その個別性を捨象して万人に言葉で伝えようとすれば、結局、「謙虚さと思いやり」といった当たり前の言葉になってしまうものです。しかし、その言葉を宗教的な実践のなかで体験した個々人にとっては、それは「直接的」で「輝きある」ものなのではないでしょうか。
お礼
そうですか。そう解説していただけると大分受け方も変わって来ます。しかし、感覚的に受ける事というのも大事なのではないでしょうか。これが宣伝文句だとしたら、何のインパクトも与えない事になります。そこにもうちょっと工夫の余地はないものかと。
- shigure33
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言ってる事は立派ですし内容も特に異論はないですよ、宗教関係の宣伝文句なんて。 でも…無いですよね、説得力と言うか信頼性。 もっと言えば(信者以外の)普通の人の心を駆り立てるような力もありませんね。 廃れてしまった古い唄と同じだから メロディが同じで、歌詞の”てにをは”が違うだけ、何度も繰り返し聞き飽きるほどに流れた唄と変わらないからですね 宗教(特に新興宗教)に携わる人間の本当の敵は… 実は『想像力の欠如』なのかも
お礼
信者は駆り立てられるんでしょうか。どうも分からないですね。想像力は、もしかしてあるのかもしれませんが、まったくでてこない。それがなんとも平坦です。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>なぜもっと直接的な表現をとらないのでしょうか? 「直接的な表現」とは、どんな表現でしょうか? 信じれば、病気が治る。事業が成長する。大金持ちになる。恋人ができて結婚できる。 って御利益を強調することでしょうか?それとも超能力とか霊視能力が身につくとか。 なんにしても、宗教としては、「お仕事が絶好調!」「あこがれの人と結婚して幸せ!」っていうときには必要に思われないもんです。仕事で失敗したとか、最愛の人とか子供が事故で死んだとか不治の病になったなど、人生の挫折とか無常感を感じるとき、心を救うために出番になることが多いもんです。 そうじゃないときは、日本人としては「宗教なんておよびでない!」っていう方が多いのではないでしょうか?でも、苦しい時には、「凡庸な感じ」と思われる言葉や、それに関するお話で十分有効のだと思います。 ただし、古い宗教は、あまりに古すぎて、インターネット・携帯電話や女性進出も当たり前の社会環境に「教え」が全く対応できなず、人々が苦しいときでも役にたたないってこともありますけど・・・。
お礼
直接的というのは、抽象論ではなく、実践論と申しましょうか。もっと宗教のダイナミックな脱日常的なことです。 それにしてもわからないのは、葬式仏教(宗教)に代表されるような、特別な行事で登場する宗教という感覚です。仕事が絶好調で宗教が背後に引いてしまう道理がない。不幸と宗教が一体化するのは、なんとも的外れではないかあるいは、宗教の冒涜ではないかと感じています。苦しいときに凡庸では、なんとも救いようがありません。教えが現代に?対応できないのでしょうか。
>>宗教関係の宣伝文句のようなものが、ひどく輝きがないというか凡庸な感じがいたします。 本当の不幸を経験し、神仏を信仰すれば、それが自分を超越した宗教となることが多いよね わらをもつかむ・・・といいますがそのわらが神仏だったりするのですよ 明日はわが身かもね
お礼
分かったような口をきくんじゃない。 昨日も今日も不幸など腐るほど経験しています。 大体葬式=仏教(宗教)不幸=宗教のセットで考えるなど、宗教の冒涜に過ぎません。
- kbfd33
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宗教の宣伝には「凡庸」「平凡」「謙虚」「思いやり」など今の教育に一番欠けている「修身の精神」を標榜するものが多く、それがまた新鮮に感じる人が多いから、此処に宣伝の中心を置いているのです。「直接的な」「過激な」表現で日本を変えるゾなどと言ったら「鸚鵡」になりそうです。
お礼
教育では、欠けていますか?凡庸な修身精神を新鮮に感じる人が多いのですか。過激でなくても、もう少し考えさせるような言い回しのほうがいいのではありませんか。鸚鵡は困ります。
- TUNE0040
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宗教関係者ではないので、想像です。 あまり直接的だと、引いてしまう人が多くなるからじゃないですか? この宗教は「常識的だ」と思わせるのが第一歩? で、講話なり集会なり行事なりに参加していただいたときに、いろいろと直接的な話をされるのではないでしょうかね?
お礼
あまりに凡庸だと、まったく頭に残らずに過ぎてしまいませんか。常識的ということと、まったくインパクトがないということは、またずれがあるきがします。これでは、説話も何も行く気になりません。ちょっと頭を使わせるようなことで、引いてしまう人多いんでしょうかね。
お礼
「質」を問わないメディア戦略によって、流行を捏造するという事は納得いたします。しかし、その商業主義と、宗教活動を一緒にしてもいいのか分かりかねます。あるいは、「質」を問う流行語(この場合流行語とは言わないかもしれません)というものにも、いつか存在価値が当たる日が来る、あるいはよみがえるのではないかと思っております。例えばプロの詩人の作った、技巧内容の詰まったものですね。 「スポーツカーに乗ろうと思う」とか。 ようするに、その種のインパクトが不足しているというわけです。その種のインパクトは不要であるか無益であると考えられている節があるのでしょうか。技巧内容に響かない人が多いのか少ないのか。そして凡庸さに響く人が多いのか少ないのか。