- 締切済み
どうして行けばよいのかがわかりません(長文です)
毎度毎度お世話になっています。 14歳、中学3年生女子です。 過去母のことなどで相談させていただいていましたが、今度は自分のことについて質問させていただきたいです。 私自身去年不登校でしたが、3年になり無理矢理でも学校へ進んで行っています。 ですが、体がついてきておらず、体調を崩しております。 母たちに圧力をかけられ、不登校からの復帰を承諾したものの、このような状態に落ち込み、精神的にも落ち込んでしまっています。 去年の今頃に不登校になりましたが、そのときと同じ状態です。 後2週間で私も15歳になります。 このままじゃ行けないと思いつつも、体がついていきません。 理由は、おそらく今の学校に対する不満?といいますか、学校について不信感しかない状態なのが原因かと思います。 学校の授業も、殆ど中身がなく生徒に対して「だからアンタたちは!」という罵倒、といいますか、そんな感じの内容が半分ある授業が1日に一回以上はあります。 また、保健室の先生に家庭内のことなど相談していたのですが、最近は聞いてくれなくなりました。 さらに、イジメた覚えもないのに、友達だった子をイジメたと教師とその子の母親に言われ、クラスでもそんな目で見られています。 友達もいますが、その子たちと付き合うのにも疲れています。 また、担任が忘れっぽく、奨学金制度についても退部についても忘れてばかりで、責任感のない人だなぁという失望感もあります。 そして、結果的に「この学校で学べることはあるのか」という思いもあり、また不登校に戻りそうな勢いです。 不登校になった理由、其れは教師を信用できなくなりました。 明らかに「イジメ」であろうことを、「意地悪だから」と言われ、「気にすることが変」と言う裏がある言葉を言われて学校へ行くことを辞めました。 精神的な疲れもあったと思います。 このまま中学に通っていてもいいことが学べる自信はありません。(不良学校という奴です) 寧ろ変にストレスが溜まっており、このままでは自分の体が不安です。 私はこの先どうやっていくべきなのでしょうか。 人生の先輩方、アドバイス宜しくお願いします。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- Questyon
- ベストアンサー率39% (16/41)
はじめまして。わたしは学生の頃いじめに遭っていました。今は社会人ですが、学生の頃の良い思い出は一つもありません。クラスはめちゃくちゃ、何のために学校へ行っているのか?こんなの毎日行ったって無意味だと思いながらも私の場合は毎日、嫌々ながら学校行っていました。親に心配をかけたくないと思い、いじめにあっていたことは親にも話しませんでした。心配かけさせないため嫌でも学校へ行く。そんな毎日でした。ただ、ほかに自分の将来のためにという思いもあって学校へ行っていたところもあります。はっきりと言って社会へ出ればもっと嫌な奴はたくさんいます。他人から不愉快な思いにさせられることことも多々あります。学校を出て社会人になっても同じです。つまり、そういう人たちと共存して行かなくてはならないのです。その人たちを避けたくても避けれないんです。なのでどう共存するのか考えなければなりません。今、道を避けることは簡単かもしれません。しかし、それによって、あなたの嫌なことがあっても乗り越える力、対処する能力は養われないかもしれません。また、学校に通学しなければ貴方自身の学力低下につながりかねません。実際、社会に出て学歴が伴わないと就職が難しくなる可能性も否めません。今、わたしは、あのとき嫌々で、吐き気に毎日おそわれても、行ってて良かったと思っています。だから今日今こうして生きているんだと思っています。大半の人はきっと「行かなくてもいいのでは」と言うかもしれませんが、もし、まだがんばれるなら行った方がいいのでは思います。あくまで私の一個人の意見・助言です。行く行かないは貴方が決めることです。これからもどんな状況でも、自分自身のことに関する決断は自分で決めなければなりません。 私の結論は「行った方よい」ですが、かならず「行かなくてもよい」という人の意見も参考にしてみてください。
お礼
有難うございます。 経験談有難うございます。 私の学校の卒業生は殆どが高校進学して中退、という人が半数ほどいるそうです。 そのような中学で果たしていいのだろうか、そういう思いもあります。 もともと授業はあまりしていないに等しいんです。(殆どの生徒が塾などで勉強しているため) また、教師の言い回し方などがわかりにくかったりなど、実質教科書で自主勉強した方が成績がよくなるそうです。(卒業した幼馴染談) 私自身も、家で勉強などしています。 とりあえず体調がどうにかなればいいのですが…。 修学旅行にだって行きたいという思いもありますが、苦しいという部分があり、どうしよう、という思いなのです…。