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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ポートフォリオ評価について教えてください。)

ポートフォリオ評価について教えてください。

このQ&Aのポイント
  • ポートフォリオ評価の評価規準についてわからず悩んでいます。生徒個々が違った活動を行っており、評価規準を作る必要があるのか疑問です。
  • ポートフォリオ評価と定期テストの評価の共通点や相違点は何でしょうか?ポートフォリオ評価を次の指導に生かす方法はありますか?
  • ポートフォリオ評価において、生徒の成長を感じ取ることはできますが、生徒を評価するためにはポートフォリオだけでは不十分なのでしょうか?どのように全体計画で目指した力を評価することができるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • Ama430
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回答No.1

大変真面目に取り組んでおられることが長文の質問文からうかがえるように思います。 そもそも、「総合」の導入は、生徒の発達を見通した教育的な視点と言うより、様々な政治的な思惑の妥協の産物(苦肉の策?)という印象が色濃いのです。 そのため、「総合」の評価は「後付け」「つじつま合わせ」という部分を感じます。 基本的に、本来評価しにくいものを扱っているので、「生徒本人はもとより,保護者や同僚にも明確に分かるように」評価するのは無理があると思うのです。 「総合」を通じて,「人間関係力」を育てるという考え方はきわめて正しい発想だと思います。 しかし「人間関係力」が身についたかどうかを判断することは難しいですね。何をもって「人間関係力」とするか、というところから明確とは限りません。 評価には2面性があります。 (1)次の学習のための評価 (2)学習結果をおおづかみにとらえる評価 (1)は、テストでまちがった問題をさらに継続指導する、という評価です。 (2)は、「これくらい漢字ができたから、この程度の本は読めるだろう」「これくらいの学力ならこの高校に入っても大丈夫」という評価です。 「人間関係力」は、「総合」の授業でだけ身につけるものではありません。 全ての活動を通じて少しずつ身についていくものでしょう。 ですから、「総合」でだけ身についた力を区別することなどできないはずです。 私たちにできることは、「総合」の授業の内容をポートフォリオという「記録」によってふりかえることです。 例えば、「この発表資料は班長と○○くんだけががんばったようだから、他の班員の人間関係力はまだ不十分だな」というような判断から、次の授業内容を検討するのは(1)の評価です。 「このインタビューのテープを聞くと、○○さんは初対面の相手ともすぐに打ち解けられるようだから、文化祭の模擬店では受付をやってもらおう」という判断をするなら(2)の評価です。 いずれにしても、数学や英語のように定量的に測定できるものではないというところが重要だと思います。 「正確」とか「明確」にこだわると、何も評価していないように感じられて自信をなくしてしまう危険があると思います。 そして、通知票に書くことが評価の全てではありません。 「生徒の成長を感じ取」った瞬間に「やった!」と一緒に叫ぶことも広い意味では評価です。 ポートフォリオをどんなにたくさん残しても、それは活動とイコールではありません。 ポートフォリオを媒介にしてよみがえる指導者自身の記憶の中に、きっと「生徒の成長を感じ取」った場面が刻み込まれています。 その場面自体を記述して、生徒を励ますだけで、私は十分だと思います。

emikouji
質問者

お礼

Ama430さん,早速のご助言ありがとうございました。 ”「人間関係力」は、「総合」の授業でだけ身につけるものではありません。 全ての活動を通じて少しずつ身についていくものでしょう。 ですから、「総合」でだけ身についた力を区別することなどできないはずです。” なるほどと思わせられました。しかし,同時に,このことは,本校の総合的な学習の時間の全体計画そのものの根拠を失わせる危険性をもはらんでいるのではないかと考えさせられました。 つまり,本校のような縦割りの活動によって,「人間関係力」が向上することを確かめる手だてが無いということなのでしょうか。私たち教師の経験則以外に,総合的な学習の時間における「人間関係力」向上の根拠となるものが無いということなのでしょうか・・・。 Ama430さんの結論を得て,心強く思いました。 先の質問にも書いたように,私は指導者たる教職員が,生徒と共に活動し,指導・援助し続けることが重要であると考えています。そのこと自体が,「指導と評価の一体化」なのだと考えています。そして,生徒個々の「人間関係力」を感じ取るのは,他ならぬ教職員その人であって,言わば教職員そのものが評価規準であるといってよいのだと考えています。 だからこそ,教職員は研究と修養をし続けなければならないのだと考えています。 しかし,このことを声高に言えない雰囲気が学校現場にはあります。教育委員会や教育事務所の指導主事の中にも,このような考えを否定するような指導を行う人もいます。 ましてや,先に述べたように,総合的な学習の時間のみの効果が切り分けられないのであれば,指導主事先生方は,「評価」とか「評価規準」とかの文言を使って,余計に学校(研究主任たる私を?)を指導し続けようとするのでしょう。(指導主事の理解力や能力の問題もあるのでは・・・。)前途多難ではあります。今後ともよろしくお願いいたします。 それから,(1)(2)の評価の2面性についてのお話しには興味をもちました。評価をどのようなカテゴリーで分けるかにおいては諸説があるのだと思いますが,このような分け方には初めて接しました。参考文献等あれば,ぜひご教授願いたくお願いします。 Ama430さん,本当にありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • Ama430
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回答No.2

計算や漢字のテストのように数値化しやすいものでなくても、客観的な表れをもとにして、「人間関係力」が向上したかどうかを確かめる手だてはあるのだと思います。 しかし、そのためには、長年定式化された(現行の指導要領ではそこが軽視されていると思いますが)各教科の評価規準に比べて、白紙の状態から、「人間関係力」の構成要素や到達目標を現場で論議する必要があります。 これは、実際問題不可能とも思える大きな課題だと思います。 私が思うのは、学問的に詳細な分析的評価をする必要はなく、事例研究の集積によって、それぞれの子どもの具体的な指導課題が見えることであり、それが見えれば「近づいたかどうか」の評価はある程度できるように思うのです。 現行の教育基本法は教育活動を「国民に直接責任を負って行われるべきもの」と位置づけています。 文部省の都合で現場をふりまわすのは今に始まったことではありません。 それでも気が済まないので、戦前のようにはっきり政治が教育をふりまわせる仕組みを「新教育基本法」に盛り込もうとしている人たちがいます。 しかし、私たちは、あくまで目の前の子ども達が自分なりに輝ける手助けをするのが本業であると思うのです。 例えば、「適格者主義」という「必ず誰かは不合格」になる高校入試制度は、「子どもが教育を受ける権利」から出発していないことはわかるでしょう。 以前の相対評価では、どんなにみんなががんばっても、良い成績をつけられる人数は同じでした。 これは、選別のための評価であり、分類の(2)を定員にふるいわけることに特化したものと言えるでしょう。 (1)(2)の分類の出典は古すぎて忘れてしまいました。 ただ、入試制度ひとつとっても、「何のための評価か」を鋭く問う教育問題です。 個人の力は微力であり、いかに評価による子どもの「レッテルはり」から「次の学びに生かす」ものへと変えていくか、は大きなテーマのひとつとして、私自身が悩み続けてきたことなのです。 つまり、「誰か偉い人が言っていた」だけでなく、強烈な実感をともなって、心に刻まれた分類であることははっきり申し上げることができます。 このテーマひとつをとっても、現場の職員集団の協力体制が必要です。 上の言うことにいちいちふりまわされて朝令暮改をくりかえす多くの管理職や指導主事をまともに相手をすることは可能な限り回避しましょう。 子どもの成長をよりどころに、保護者も味方につけましょう。 それができれば「必要最低限の評価」で良いのだと思っています。

emikouji
質問者

お礼

Ama430さん,再び詳細なお答えありがとうございました。 Ama430さんがおっしゃる通り,まともに相手することは可能な限り回避したいものです。無駄なことをしている感じが常につきまといます。 でも,頑張っていきたいと思います。Ama430さんのように話の分かる方がいらっしゃることを支えにして,頑張っていこうと思います。一度,Ama430さんと一緒に酒でも飲みながら,いろいろとお話しをうかがってみたいですね。本当にありがとうございました。