- ベストアンサー
音楽会の担当楽器、こんな決め方でいいの?
小学生1年生の息子が学校から帰ってきて、いきなり 「今日音楽会の楽器決めてんけど、音符読めないからって一番やりたかった楽器になれへんかってん。結局なぁ~それはピアノを習ってる子が選ばれてん。そんで次にやりたいのがあってんけど、それはコンテストで僕の方が下手やったから、それもあかんかってん・・・」 と言ったのです。とても残念がっていました。 ちなみに音符はまだ習っておりません。 私は、習ってもいない事を基準にして選抜するやり方に納得いきませんでした。 又、前もって配られた学年通信で「コンテストで決めますので、なりたい楽器になれないこともありますが・・・」とは書かれていましたが、子供の心に傷をつけるようなこの様なやり方にも、どうしても納得がいきません。 後日その事を担任の先生に伝えたところ、 「音符という言葉を出してはいけなかったですね。僕が悪かったです。」 と素直に謝ってはくださいました。 “音符”という言葉を出さなければいいという問題でもないですけど。 しかし、私は学年の方針としての“コンテスト”の方が実はもっと理解できないのです。 一生懸命やっても、器用な子供と不器用な子供は必ず出てきますよね。 上手い子を選抜する方法では、習い事をしていない子供や不器用な子供は、毎回「やりたくない楽器」を担当させられるわけです。 そもそも学校の良さは、出来る子も出来ない子も助け合いながら一緒に成長していく所にあると思うのです。 たとえ下手でも皆が輝いて見える・・・そんな音楽会が見たいのです。 先生方にとっては、授業時間の制限もあり、出来ない子供に教えることは時間のロスかもしれませんが、それならば楽曲のレベルを下げるというのも、1つの選択肢だったのではないかと思っています。 学校関係の方、同じ年頃の子供を持つ保護者の皆さん、私の考えはおかしいですか?
- みんなの回答 (24)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (23)
- songbook
- ベストアンサー率36% (334/910)
- nubewo
- ベストアンサー率24% (14/57)
- pop7777
- ベストアンサー率30% (10/33)
- Sarukan
- ベストアンサー率55% (41/74)
- do_mo
- ベストアンサー率21% (3/14)
- Sarukan
- ベストアンサー率55% (41/74)
- latipes
- ベストアンサー率36% (63/173)
- shimijimi-neko
- ベストアンサー率0% (0/4)
- suuzy-Q
- ベストアンサー率12% (83/664)
お礼
深夜なのでお読みいただくのは、多分翌日になりそうですね。 とにかく、感謝の気持ちで一杯です。 私に見失っていた大切なものを教えてくださったように思います。 それは、“子供の目線で見ていたつもり”が実はそうではなかったということです。 どこまでいっても“親”なんですね。親ばかと言われても仕方ないかもしれません。 見る側の立場や憶測でしか考えていなかったように思います。 >表現者の立場としての音楽の喜びとは何か それを考えた場合、確かにsongbookさんや他の方がおっしゃる通り >ある程度の難しさのある演奏 かもしれませんし >チームワークの発揮された音楽を演奏しながら1年生の子が鑑賞する能力となると・・・ というのにはさすがに私も疑問を感じます。 学校授業の一端として考えるなら、むしろ向上(上達)させていくことも大切な課題なんですね。 全く逆の発想ですね。 先述のお礼の中で、学Pのお小遣いについて「与えないから分からないのです」と書きました。 難しい楽曲を与えることも別の側面からしてみれば「与えなければ出来ない」のかもしれませんね。 可能性を信じ伸ばしていくという考え方においては相通ずるものを感じます。 その点を追求していけば、確かにそれぞれの子供が自分に割り当てられた楽器で精一杯頑張っていくことは、大切な事だと思いますし、その為には今回のような担当楽器の選抜方法も正しいといえるでしょうね。 >音楽の教育とはいったい何なのか? 芸術の分野を授業とする事自体、疑問はあると思います。 私などには即答できない問題です。 美術などでも同じことが言えるのでしょうね。 いつも「ホッ」とすることがあります。それは絵画の展覧会で選ばれた絵を観ているときです。 その年齢の子供なら誰もが描けそうな絵なんですよね。 しかしその中にやはり何かキラっと光るものがあるのは、私のような素人でも感じます。 それが、その時のその一瞬の子供の心なんですよね。 多分、親からガミガミ叱られた後だとその絵にはきっと輝きはなかったと思います。 芸術に甲乙つけることには賛否両論あることでしょう。 しかし甲乙つけることを目的とするものがあっても間違いではないかもしれません。 コンテストで担当楽器を勝ち取った子供は、多分その一瞬に賭けていた願いが形となって、また表情として表れていたのかもしれませんね。 その事自体を称えていけないはずはありませんから。 良い結果を出したものだけが報われる ある意味資本主義社会に生きる人間は、皆どこかでそういった重荷を背負いながら生きていかなければならないのです。 そして頑張った者全てではなく、その中からほんの一握りの良い結果を出した者だけが報われることも当然といえば当然だったのかもしれません。 かなり、もやもやがとけてきました。 さぁ、どなたかとどめの一撃を私に下さいませんか?お待ちしています(笑)。