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気功と仙道の違いについて
現在、高藤聡一郎さんの本にて気功に励んでいます。 大周天の外部周天まで到達しました。 気の流れは掴めるのですが、本に書いてある体が突き上げる感覚や能力の開発が見られません。 これは、気功と仙道の違いよるものでしょうか?というのは、気の流れはわかりますが、熱感がないからです。 ご教授下さい。
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熟知しているわけではないので、以下は私なりの回答です。 そういう段階以後は次第に「哲学」の領域に入って行き、実際に体験できるのか、或いは体験したいと望みつつ哲学的思索に入っていくのか・・・ というのが巷に溢れる気功・仙道関係の書物では多くなってきます。 つまり簡潔に言えばその段階よりちょっと先以降を書いたインチキ臭い(哲学的な)本が世の中に溢れています。 一般的には仙道の方が気功術よりずっと哲学的ですね。 高藤聡一郎さんの本は私も読んだりもしかすると持ってるかもしれませんが、どういう人かは忘れました。ですのでこの回答ではその人に関係ない立ち位置で書いてると思ってください。 「体が突き上げる感覚」や「能力の開発」については、それらが現れるのを自然に待つ、という方法もありますよ。(それらが不可能だと言っているわけではありません) 指導者が身近にいるわけでもなく、本の解説者が万能の神であるわけでもなく、こういう修行法自体が科学的・医学的に確立されているわけでもないし、もしかすれば根本的な誤りがどこかにあるかもしれませんし。全ての人が全く同じ道順で全く同じ地点に到達する訳はありません。 基本的な立場として大事なことは無理は禁物だということ。 「大周天の外部周天」と言われてますが、身体のどこかの部位の端部で気の感覚が身体から消えて(つまりその先には身体がないから感覚できない)、タイミング的に呼応してどこかの部位で気が発生して(つまりここでは気が体内に入ってきて)そういう気が下半身と上半身を流れる、ということですかね。(一般的に物の本では足の裏から頭の頂部?) そういうのは丹田や身体のどこかが温かくなくてもできますし、必ずしも熱いのは必要ないと私は思ってます。 質問者さんは気をどんな感じで感覚しているのか分かりませんが、 「体が突き上げる感覚」は多くは背骨の下部(よく言われるのが尾てい骨付近やその少し上のあたり)から気の激しいものが自分の意志として制御されつつ、或いは自分の意志での制御なしに不随的に、背骨のあたり(orもう少し前)に沿って上方に上ってきます。 ヨガなどでは「クンダリニー」とか「クンダリニーの覚醒」とかがこれに近いかもしれません。 この時、それが自分の意志での制御なしに不随的に上ってくる場合にはその流れの強さをほどほどのレベルにとどめて置いて下さい。 この種の練習はどんな時にも無理は禁物であり、身体のどの部分にも過度の負担をかけないように。(特に頭蓋骨内部は注意) 出来るだけその流れを自分の意志の統制下に置くように努める。 初めから自分の意志によりそれを発生させれば安全ですね。 質問者さんは自分で発生させられませんか。(無理は禁止ですけど) 体内の気の流れを自分の意志によりコントロールできる段階では、「体が突き上げる感覚」をも自分の意志で発生できますし、その後その流れをコントロールできます。(とりあえず初心のうちは頭の中に入れないで、首でストップして安全策をとるとよいです) 但しそれが本に書いてある「体が突き上げる感覚」に相当するのであるかはある意味で別の問題ですが。 自分の意志で体内の気の流れや気の発生を十分にコントロールできないのでしたら、細かい気を使ってまずはそれができるように練習してください。 「能力の開発」の面においては、多くの本には「能力の開発の目的でこの修行をするものではない」とかと書いてあります。大半の著者がそれを体験してないからですね。 普通ですと、この「大周天の外部周天」の段階では顕著な能力の発揮が見られるということはあまりないのでは。 ただし「能力の開発」と言っても、期待しててもなかなかお目にかかれなかったり、或いはそういう能力の発現に自分では気が付かない時もありますよ。 なにせ、能力が開発されていく時にはそれが特別なものではなくなっていて、自分の生活の中で普通に起こっている感覚・出来事になってますから。気が付きにくい。気が付いても殊更特別視しない。 ここで空車が回っているのではないかのか?という点に注意です。 それに加え、時には精神的な病気の症状に似た体験がありますので、自己観察が必要です。 精神病か或いはある種の能力なのかの判別は、それが正しかったか間違っていたかである程度は判別可能です。 もう少し突っ込んで言うと、例えば何かを超感覚的に知り得た時、それが正しければ精神病みたいなもんだが役に立つ能力である・・・という境地に到達していきます。(精神病というのは正誤に関係なく感覚が発生しますが、能力によるものは正しい知として発生します。たまには間違えますが) なおこの種能力においては、多数の先人たちがいます。 彼ら善良な人々によって自然に出来上がった大義の法に背かないよう、不正を働かないようにしてください。 不正には天罰が彼らから(大義の法から)下ります。 逆に大義の法にのっとれば修行の完成に大きく寄与し、能力の効能を飛躍的に高められ、人は世のために生きる喜びを得ることが可能です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 熱感が無くても大丈夫ということで安心しました。引き続きコツコツと行に励みたいと思います。